はじめに
民主主義とは国民が主権を持つ国家体制である。国民が重要な決定権を持ち、国民が選挙権を持って代表を選び、憲法改正・重要な法改正などでは国民投票も行われる。民主主義の考え方は古代より存在し、古代ギリシアの自由民による政治参加が認められていた。近世ヨーロッパを始めとする国家では絶対君主を中心とする体制(君主制)が敷かれていた。そこで、彼らは自ら被支配者たる地位を脱して、政治的自由の獲得を望むようになる。この傾向は17世紀のイギリス革命、また18世紀のアメリカ合衆国建国として現われた。1789年に起ったフランス革命はその最も強力表現である。歴史の新しい方向を決定させ、これは近世後期の転換点と言える。近代まで選挙権は一定の税金を納めている者、貴族など特権階級に与えられていた。現代では民主主義制を取る多くの国である年齢に達すれば選挙権が与えられる普通選挙が普及している。
近世の民主主義について
近世初期はいわゆる絶対主義の時代であった。すでに15・6世紀以来人々の間に自由の意識がめざめていたが、18世紀末まではなお旧時代の遺制が種々の面に残っていて人間の生活をしばっていた。政治の上では絶対君主を中心としてそれと結託した貴族・僧侶を支柱とする体制が厳存し、一般庶民はなんら政治上の発言権がなかった。しかるに近代産業のめざましい発達は次第に富裕で教養の高い市民階級を生み出し、彼らは自ら被支配者たる地位を脱して、政治的自由の獲得を望むようになった。この傾向は17世紀のイギリス革命として、また18世紀のアメリカ合衆国建国として現われた。しかも1789年に起ったフランス革命こそは,その最も強力かつ徹底的な現われであって,歴史の新しい方向を決定したものであるから、これを近世後期の出発点に置くことは至当である。
フランス革命によってアンシャン・レジームという言葉が創出された。1788年、貴族身分の1パンフレット作者によって用いられたのが初出とされる。1789年の春の選挙は、フランス国内の3つの身分の代表者が議論をする場として、全国三部会を中心とした新体制が樹立された。新たな夜明けが始まり、これ以前の体制を「以前の体制」として言及するものが現れたのである。この旧来の統治が崩壊するにあたって、1788年夏に頂点に達した政治的抗争と論争の渦中で人々は、これらすべて恒久的な基盤に立って律するためには憲法が必要だと語り始め、結果として国民議会が1791年9月に憲法を生み出した。その憲法はアンシャン・レジーム下にあったすべての事柄に対する逆を体現すべく意図されたものとなる。それは、国民主権、法の支配、権力分立、選挙による代議制政府、広範に保障された個人の諸権利を高々と掲げるものとなった。
フランス憲法前文の宣言では、『自由および権利の平等を害していた諸制度を最終的に廃止する。貴族身分、世襲的差別、封建体制、家産的な裁判、それらから由来するいかなる爵位称号も特権、そしていかなる騎士身分、あるいは、貴族の証明の必要、生まれの差別を含むようないかなる社団や勲位などもはや存在しない。フランス人に共通な法に対する特権も例外も存在しない。法は、自然権や憲法に反するような宗教的誓約も他のいかなる契約も承認することはない』とされる。
これまでのアンシャン・レジームの下では聖職者や貴族という特権身分が存在し、多くの共同負担は免除されていた上に、すべての公的な権力と利益とが独占されていたが、歴史的な客観性は全く考慮されていない。そのため、基盤となるものが何もないのである。そのため、アンシャン・レジームに対する最初にして最大の擁護者としてエドマンド・バークがいる。彼の『フランス革命に関する省察』は、主にイギリスの自由とフランス革命によって宣言されたものと2つの自由は全く異なるという考えであった。イギリス人は過去から継承されてきた制度を信頼しているが、フランス人は継承してきたものを改革によってすべて捨ててしまっている。アンシャン・レジームに手を加えて改善していけばよかったのではなかったのか。また、彼は特に教会に対する攻撃に憤りを感じていた。バークは、教会は調和がとれた社会基盤の1つであり、革命は市民社会の基盤、1つの国家、宗教的権威を革命は破壊したのだという主張をする。アンシャン・レジームの時代は秩序と従順、所有の尊重、そして宗教への敬意の時代であった。
アンシャン・レジームについて知識を深めるために本格的な学問的研究は1856年に開始された。アレクシス・ド・トクヴィルの『アンシャン・レジームとフランス革命』が創刊された年である。彼にとって革命とは、フランス社会に長いこと以前から伏在していたものが、ただ大きくなり完結させたものであると考えている。近代社会の流れは不可避的に平等へと向かう。危険なのはそれによって専制政治への道や自由の破壊への道が開かれてしまう点である。かつて中世では自由であったが、アンシャン・レジーム下では一部の特権階級への特権や免除が発生。それを水平にする革命が歴史そのものの推進力に他ならないという。また、トクヴィルは述べる。アンシャン・レジームがヨーロッパの大半が同一の諸制度を持ち、フランス特有というわけではない。ではなぜ、フランスで最初に起こったのか。彼によれば、特にフランスでは中央集権的統治によって、公的な発言権も義務という感覚も人々から奪われていた。盲目のその中で非現実な啓蒙思想の夢に魅了され既存の諸制度への軽蔑へと駆り立てられた結果であると述べている1)。
現代の民主主義について
現代の民主主義の課題として日本の例について挙げる。日本は立憲民主主義であり、憲法の元に平等な普通選挙制であるため年齢に到達すると国民皆に選挙権が与えられる。それゆえに問題点も生まれている。1つ目に、まず、日本の衆議院選挙の投票率が低く、政治に無関心な層があること。次に、女性の国会議員が少ないことが挙げられる。
1つ目の衆議院議員は任期が4年と短く、参議院に比べ優越的権限を持つより民意を反映しやすい特徴を持つ。その衆議院選挙ですら平成29年全体の投票率で、53.68%と選挙権を持つ国民の半分しか投票を行っていない2)。これは政治に対する無関心を示していると言える。誰が国会議員になっても日本の政治、経済は大きく変化しないだろう。自分の1票を投じても国はどうせ変わらないと言った考えである。世界を見てみるとベトナム、シンガポール、オーストラリアといった国々で軒並み90%を超えている。例えばベトナムはこの背景に、地域の投票率が地区の「成果」とみなされることがあるという。地区選挙管理委員会の人たちは投票率を限りなく100%に近づけるため、投票に来ていない人を家まで呼びに行き、代理投票をも促す。法律では有権者本人が投票をするべきだが、実際には家族などによる代理も存在する。また、投票に行かない人はシンガポールでは選挙権の剥奪。オーストラリアでは1600円ほどの罰金がある3)。このような理由から高い投票率を実現している国も存在する。
2つ目の女性の国会議員が男性に比べて少ない。少ないことが意味していることは女性特有の出産・子育て問題などの民意が通り辛い状況になっている。出産後に受け入れてもらえる保育園がなく社会復帰がし辛い。このような問題を解決していくには女性の声を大きくする必要がある。しかし、日本の2019年の女性議員の割合は13.8%である。世界を見るとアメリカで23.8%、多いところではルワンダ55.7%やキューバ53.2%といった女性のほうが高い割合の国も存在する4)。解決策としてフランスではパリテ法という男女の国会議員立候補を同数とすることを法律で定めている。その結果、2018年では40%近い女性比率を生み出している5)。近代の民主主義を勝ち取ろうと団結した時代の波は現代社会ではもはや存在しないとも言えるのではないか。国民は普通選挙を獲得すると、人々はその年齢になれば選挙権を与えられることが当たり前になり、今では政治に関心を持たせようとするジレンマも生まれている。例えば、昨今のイギリスのEU離脱の国民投票のように、民主主義では一時の流れだとしても国民の過半数が手を上げればその道を選ぶことになる。この状況が民主主義を見直す大きな波となる可能性も捨てきれないと言えるのではないか。
参考文献
[1] ウィリアム・ドイル著/福井憲彦訳「アンシャン・レジーム」(岩波書店、2004年)
[2] 総務省webサイト https://www.soumu.go.jp/senkyo/senkyo_s/news/sonota/nendaibetu/
[3] ベトナムの選挙制度 https://life.viet-jo.com/howto/basic/357
[4] Global Note https://www.globalnote.jp/post-3877.html
[5] Nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-data/h00409/
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