【歴史】刀狩り論 藤木 『刀狩り』(岩波新書、2005年)

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刀狩令

秀吉の刀狩令は1588年(天正 16年7月づけで発令された3ヵ条からなる朱印状である。3ヵ条のうち、法の定めが主文(百姓武具の停止の原則)といえるのは、第1条の最初の部分だけであり、残りの部分はこの法の読み手である大名・領主・代官らの説得に当てられる。第2条と第3条は大名・領主・代官らが百姓を説得するための秘策を伝授した箇条である。「武器を農具へ、戦士から農民へ」といった形で、秀吉は刀狩令(の第2条と第3条)を通じて、あるべき理想の百姓像を示す。それは、中世的な自力による紛争処理のシステムがもたらす惨禍に疲れ果てた民衆の気持ちに巧みに取り入る説得の論理でもあった。

刀狩の目的

藤木は刀狩りに関する通説として刀狩令によって民衆は武装解除され、抵抗の物理的手段をとりあげられてしまったという理解があり、丸腰の民衆像がある。数多くの研究が積み重ねられている太閤検地と異なり、刀狩り令に関してはまったく研究されることもなく、上記の理解が通説とされている。日本人の共同幻想ともいうべき、丸腰の民衆像という刀狩りの通念は、百姓の武装解除を謳った一片の法令を政策の貫徹と読み替え、歴史の実像に目をつぶることで成り立つ。一方、しかし,秀吉の「刀狩り」は民衆の「武装解除」ではなかったという評価は妥当なものと言い得るのか。確かに,秀吉の「刀狩り」が「根こそぎ」ではなかったことは納得できる。また身分標識としての「刀」に対する統制が目的であったという点もそれが唯一ではないが首肯できる。しかし,そのことをもって民衆の「武装解除」ではなかったと言えるのであろうか。「刀狩り」によって,百姓にとって武器は本来必要のないものとして,その没収が命じられた。そして,それが「根こそぎ」ではなかったとしても実際に没収が実行されたのである。百姓は農耕に専念すべきものとされ,武器を持たざるものと位置づけられた意味は大きい。武器を持つことが明確に非合法化されたのである。その意味では民衆の「武装解除」と言うことができる。領主や大名に不満があれば根来衆や雑賀衆と言った武装集団も武装解除している。大橋はこの刀狩により17世紀半ばまでに武士(領主)の責務は「仁政」を行うことであるとの観念が成立したとしている。

兵農分離と刀狩

刀狩りの真のねらいは帯刀という男の名誉ある武装権を武士だけで独り占めすることに、真のねらいはあった。「平和を守る」のは武装する武士のつとめ、「物を作る」のは農具を持つ百姓のつとめと、兵と農の役割をはっきりと分ける兵農分離を目指したものであり、帯刀はその分離の目印、身分の象徴となった。

刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法令ではなかったからこそ、喧嘩停止令は村に武器があるのを自明の前提として、それを紛争処理の手段として使わないことを命じた法令となる。「自力救済」否定を目的とした刀狩により、横の連帯(一揆)が否定される。

民衆は武器の使用を封印し、帯刀の名誉を手放してまでも農耕に専念できる平和な世の中が到来することを選択し、刀狩令と兵農分離令の両法令を受け入れる。秀吉の刀狩令の後、近世の村々にはなお数多くの武器が残される。それを使えば罪になったが、所持そのものは問題にもされなかった。しかし、身分表象に関わる刀の規制だけはしだいに浸透していく。民衆の風俗規制としての意味合い。

民衆の武装解除としての刀狩

藤木が本書での立論(民衆の武器封印論)の根拠としている「事実」はもう一つある。近世(江戸時代)の百姓一揆について,次のように述べている。中世の村の武力は中世の村々の男たちは刀とともに成人し、自前の武力をもって武装する。その武器を日常生活の中で害鳥獣の駆除や村の治安維持、山野、河海のナワバリ争いに地域の防衛に自在に使いこなし、それを「自検断」と呼んで、「人を殺す権利」さえも手に入れることになる。

兵農分離・小農自立の進展:生業による役割分担の意識化へは生業と役の結合として士農工商のほか、将軍・大名、天皇・公家、宗教者、下層民、賤民など、当該期のあらゆる階層を含んでいる。それぞれの生業が「役」として果たされることによって秩序が成り立っているという意識がある。横並び意識の醸成:その延長線上に石門心学(18C 初、商行為の矜恃)の登場がある。

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