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はじめに
安政3(1856)年7月21日、初代アメリカ総領事ハリスは日本との貿易ができるよう通商条約の締結を幕府に求めた。条約の調印は神奈川沖に泊まっているポーハタン号の上で行った。朝廷の孝明天皇からは条約調印の勅許が得られないまま、安政5(1858)年6月19日、大老井伊直弼は「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結した。
また、幕府はアメリカに続いて、安政の五か国条約を結んだ。オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ。いずれも、他国が関税率を決められる関税自主権を持つことはできず、他国の法律で裁くことができる治外法権を認める不平等条約で、後に明治政府が欧米諸国とこの不平等条約改正の課題となった。なお、条約の調印場所となったポーハタン号は日米修好通商条約の批准書[注1]を交換するため、安政7(1860)年1月、アメリカに向けて横浜を出発している。勝海舟らが乗る咸臨丸も共にアメリカに向かった。
日米修好通商条約 条文
以下引用文(985字)
日本国亜墨利加合衆国修好通商条約並貿易章程
第一條 向後日本大君と、亜墨利加合衆国と、世々親睦なるべし。(中略)
第二條 日本国と欧羅巴中の或る国との間に、もし障り起こる時は日本政府の嘱に応じ、合衆国の大統領、和親の媒となりて扱ふべし。(中略)
第三條 下田・箱館の外、次にいふ所の場所を左の期限より開くべし。
神奈川 午三月より凡十五箇月の後より西洋紀元千八百五十九年七月 四日
長崎 同断 同断
新潟 午三月より、凡二十箇月の後より 西洋紀元千八百六十年 年一月一日
兵庫 午三月より、凡五十六箇月の後より 西洋紀元千八百六十三 年一月一日
若し、新潟港を開き難きことあらば、其代わりとして同所前後に於て一港を別に撰ぶべし。神奈川港を開く後六ケ月にして、下田港は閉鎖すべし。此ケ条の内に載たる各地は亜墨利加人に居留を許すべし。
第四條 総て国地に輸入輸出の品に、別冊の通、日本役所へ運上を納むべし。(中略)
阿片の輸入厳禁たり。若し亜墨利加商船、三斤以上を持渡らば、其の過量の品は日本役人これを取上ぐべし。
第五條 外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし。金は金、 銀は銀と、量目を以てひかくするをいふ。(中略)
第六條 日本人に対し法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシュル裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以て罰すべし。亜墨利加人へ対し法を 犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本法度を以て罰しべし。
第七條 日本開港場の場所に於て、亜墨利加人遊歩の規定左の如し。
神奈川、六郷川筋を限とし、其他は各方へ十里(中略)
第八條 日本にある亜墨利加人、自ら其国の宗法を念じ、礼拝堂を居留場の内 に置くも障りなく、並に其建物を破壊し、亜墨利加人宗法を自ら念ずるを妨る事なし。(中略)
双方の人民、互に宗旨に付ての争論あるべからず。(中略)
第十條 日本政府合衆國より軍艦蒸気船商船鯨漁船大砲軍用器並に兵器の類其他要需の諸物買入れ又ハ製作を誂へ或は其國の学者海陸軍法の士諸科の職人並に船夫を雇ふ事意の侭たるへし
第十三条 今より凡百七十一箇月の後 即ち千八百七十二年七月四日に当る 双方政府の存意を以て、両国の内より一箇年前に通達し、此の条約 並に神奈川条約の内存置く箇条及び此の書に添たる別冊ともに、双 方委任の役人実験の上、談判を尽し、補ひ或ひは改むる事を得べし。
第十四條 右条約の趣は、来る未年六月五日 即千八百五十九年七月四日より執行ふべし
第一条では鎖国によりこれまで閉ざしてきた港を開港し、日本とアメリカ合衆国では交流を行わなければいけないことが記されている。
第二条では日本と他国との間にもしトラブルが起こった時は日本政府に応じ、合衆国の大統領と和解に努めることとしている。
第三条では神奈川・長崎・新潟・兵庫の港を開く条件と江戸・大坂の開市、通商は自由貿易とすることが書かれている。また、神奈川の開港6か月後には下田港を閉鎖すること。また、開港された土地にアメリカ人のための居留地を設けることができるとある。
第四条ではアメリカとの貿易品にかかる関税の割合は日本とアメリカがお互いに協定して決めることが定められている。日本の関税を自ら決定出来ず、他国と協議しないといけない。関税自主権の欠如となる不平等な条約である。
第五条では、外国の貨幣と日本の貨幣を今後1年間交換できることが決められている。また、金貨・銀貨の輸出も認められていた。しかし、貨幣に含まれている金や銀の量が日本と外国とでは異なるため、日本の金貨が大量に海外へ持ち出されることになった。このため、貿易が今後発展できないと心配したハリスらは幕府に金貨の改鋳を求めた。万延元年(1860年)には金貨の改鋳を行い、金貨の流出は止まっている。アメリカ人であるハリスが武力行使を行えば簡単であるはずの日本に対して、これまで鎖国を行ってきた日本との貿易が、うまくいかなくなってしまうことを心配して介入しているのは興味深い事実である。
第六条では治外法権。日本に滞在するアメリカ人が罪を犯した場合、領事裁判所でアメリカの法律により裁かれることについて書かれている。これは実質的に治外法権を認める内容で、第四条と併せて極めて日本に不平等な条約であった。
第七条では第三条で決めた開港場所付近のアメリカ人の行動範囲を規定している。例えば、神奈川港では六郷川沿いを境目として、その他の方角は約十里までと決めている。文久2年(1862年)に生麦村で起きた生麦事件は日英修好通商条約で同じようにイギリス人の行動範囲も規定されている。
第八条は日本に滞在しているアメリカ人のために礼拝堂を居留場の内に置くことが許される。また、その建物を破壊し、アメリカ人を妨害してはいけない。また、日本人とアメリカ人の争いも起こしてはいけないとしている。
第九条では米国領事が要請した場合、日本政府は司法からの脱走者、逃亡者を逮捕し、領事の逮捕した者を禁固とし、米国法適用の可否権を当地の領事に与え、護送を行うこと。米国領事は、これらの措置、囚人の禁固にかかる正当な費用を支払うものとする[2]。
第十条では日本政府は米国より軍艦、商船、捕鯨船、大砲、軍需品、諸武器、及びその他の必要品を購入でき、作製を委託できるものとする。また、これらの船や武器に関し、米国の科学者、軍人、職人、船員に接触できるものとする。日本政府の購入品は米国から輸出でき、かかる輸出品に携わる米国人は誰でも自由に米国を出国できるものとするが、日本が米国と戦争となった場合は、戦争によって禁じられる物品、及び海軍、軍隊員を輸出出来ないものとする[2]。これにより日米間において船や武器を輸出入出来ることになるが、戦争となった場合は武器が手に入らないこととなるため戦争の抑止力効果を持たせている。
第十三条では今より1872年7月4日に当る日に双方政府の合意を以て、神奈川条約(日米和親条約)の内に箇条及びこの書物を得るとある。
第十四条では条約が1859年7月4日より執行するとある。
初代アメリカ総領事ハリスは日本との貿易ができるよう日米修好通商条約の締結を幕府に求めた。大老井伊直弼は朝廷の孝明天皇からは条約調印の許可が下りないまま押し切り、この条約を締結した。アメリカとの争いを避けるため、関税自主権がなく、治外法権となる不平等条約となったが、結果的に鎖国から貿易を拡大し、これが日本を近代的な国家へと加速することとなった。
参考文献
[1]日本国亜墨利加合衆国修好通商条約並貿易章程
日米修好通商条約 http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/0801_0850/0836.htm
[2] 日米修好通商条約(1858年締結)ハリス条約
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