はじめに
1517年にキリスト教のカトリック改革運動として始まる宗教改革は、なぜ世界的な出来事とみなされているのか?それは、マルティン・ルターが当時カトリック教会にとっての重要な収入源であった贖宥状を廃止し、聖書の教えに戻るべきだと訴えたことが一番の根底にあると考えられる。初め、マルティン・ルターの宗教改革は単なるドイツの局地的現象に過ぎなく、マルティン・ルター以前にもカトリック教会のあり方に対して大きな疑問をもつ人々がいた。ルターは以前から続くカトリック批判を展開した。ルター自身は、何もカトリック教会と異なる新しい宗派を立ち上げようとしていたのではなく、結果としてプロテスタント派を生むことにはなったが、当時はあくまでも教会内部の改革を進めようと考えていた。
贖宥符の真の意味
マルティン・ルターによる批判の矛先は、カトリックによる「贖宥符(しょくゆうふ)」の販売に向けられていた。贖宥符とは、日本では「免罪符」とも呼ばれるもので、金銭と引き換えに教会が発行してくれる。これを手に入れれば、それまでの罪が赦され、死んだ後には天国に行けるとされる証書である。かつては、ローマまで巡礼できないものに巡礼したと同様の効果を与えるとして発行されていた。しかし、その後聖ピエトロ大聖堂の建築の資金など様々な理由をつけて贖宥符を販売していた。もちろん、聖書にそのような仕組みについて書かれた箇所はなく、カトリックが独自に生み出したシステムである。
マルティン・ルターは信仰とは教会の教えではなく、聖書の教えに基づくべきだと考えた。そこで、ルターは1517年書簡を送りかつヴィテンベルク大学の聖堂の扉に贖宥の効力を明らかにするための討論〔九五箇条の提題〕を呼びかける掲示を行った。その内容としては『煉獄にある魂が自らの救いについて確信し、また安心しているなどということは証明されていない。そのため、教皇はすべての罰についての完全な赦しを与えることで、それによって単純にすべての罰が赦されると理解するのではなく、それはただ自らが科した罰の赦しだけだと理解しているのである。
それゆえ、教皇の贖宥によって人間はすべての罰から解放され、救われる、と説明する贖宥の説教者は誤っている。(一部抜粋)』1とルターは述べている。これは免罪符によって教皇が赦しているのは教皇が科した罰だけであり、煉獄に向かう魂が免罪符によって許されるということは証明されていない。すべての罪が許されると謳って免罪符を販売することは疑問を抱くとルターは指摘し、善い行いによってのみ罪は軽減されると説いている。この九五箇条の提題からなる当時のカトリック批判によりルターは教皇から怒りを買い、破門されながらも、後に1524年夏南ドイツから全ドイツに渡った農民戦争を経て、新教であるプロテスタントを確立したのである。もちろん、「信仰によってのみ人は義である」をルターは貫き通した結果がこの形となったものと感じる。
宗教改革後の変化
また、宗教改革以前の礼拝堂では「礼拝やミサが執りおこなわれる間、礼拝もミサもすべてラテン語。その時々に何が行われているのか、神父は何を唱えているのか、その意味を理の時々に何が行われているのか、神父は何を唱えているのか、その意味を理解する必要はなかったのである。」2とある。マルティン・ルターの宗教改革の成果の1つに、宗教行事を市民の多くが理解できなかったであろうラテン語をドイツ語にて行ったことにある。宗教改革後には『「悔悛の秘跡」と呼ばれる懺悔聴聞は、民衆のためのキリスト教のひとつの顕著な姿である。民衆は自分の犯した罪を個別に神父に懺悔し、神父から「私はあなたの罪を赦す」と赦免を受けるとともに、断食や徹夜の祈りといった償いの行いを課せられる。そうした個別の儀式、秘跡が懺悔聴聞である。これはラテン語ではなく、ドイツ語のような民衆の言葉によって行われた。』3とあり、ただ訳もわからず宗教行事に参加していた民衆は自分たちの理解できる言葉によって行われ、参加する意味をようやく理解できるようになったと考えられる。また、懺悔聴聞によって侵してしまった罪の償いが出来、理解できる言葉で神父から赦免を受けることが出来るようになり、キリスト教徒である意味が宗教改革以前よりも増していると感じられただろう。
参考文献
[1]宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」 (講談社学術文庫) p.146-156
[2]マルティン・ルター ことばに生きた改革者 徳善義和 岩波書店 2015 第四刷p104-105
[3]マルティン・ルター ことばに生きた改革者 徳善義和 岩波書店 2015 第四刷p115
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