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幕府がアメリカとの修好通商条約締結を急いだ理由
これまで鎖国を続けていた幕府はアロー戦争にて清に対してイギリス、フランス連合軍が勝利し、天津条約を結ばれた。幕府はアメリカのハリスから両国使節の来航の知らせを受け考えを改める。条約締結を急いだ理由として戦争を仕掛けられるのではないか不安になったからである。幕閣の多くは一刻も早く友好的なアメリカと通商条約を結ぼうとしていた。しかし、調停は思ったより尊皇攘夷の考えで固まり、後に安政の大獄に発展する。
幕府が桜田門外の変について彦根・水戸両藩の責任を追及しなかったのはなぜか
本来なら彦根藩は断絶、水戸藩にも相当の厳罰が下されるはずであるが、幕府は処罰を下さなかった。井伊直弼は実際、桜田門外の変にて首を取られ殺害されたが、しかし、しばらく生きていることとし、病気負傷後死亡として受理されている。もし、彦根藩を断絶にしたなら、彦根藩士は水戸藩に仇討ちを試みたであろう。江戸市中で戦乱の可能性が考えられ、幕府はこれを恐れたため穏便な処置で済まされたためである。
3)文久の改革で参勤交代制度はどのように変わったのか。その結果はどうなったのか。
1862年に薩摩藩主の父、島津久光にて行われた改革である。それまで2年に1度であった交代制であった大名の参勤交代を3年に1度とし、江戸在留期間も100日としている。また、大名の妻子は人質として江戸に置かれていたが、帰国を許可されることとなった。これは幕府制度確立以来の根本制度の変革であり、幕府権力の低下を意味している。桜田門外の変以降幕府の権力の失墜を阻止する力はなかった。
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