【歴史】江戸時代の幕藩制

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幕藩制における裁判手続きについて

幕藩体制では現代の日本のような内閣、国会、裁判所のような三権分立は存在しなかった。その当時、幕府や大名が行政府であり立法府であるが、司法裁判権についても行使していた。江戸幕府の裁判制度の機構的成立は寛文期に老中に集中していた裁判権を新設された寺社・町・勘定三奉行からなる「評定所」へと移行、各奉行の下に法曹官僚が現れた。元禄十年(1697年)の「自分仕置令」によって領主裁判権が保障され、寛保二年(1742年)、判例法である「公事方御定書」が制定された。公事方御定書は上巻は警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録、宝暦期に最終的に成立し、それ以降裁判制度が確立した。また、これらは出入筋、吟味筋と呼ばれる裁判手続で処理されていた。出入筋は主に民事裁判を取り扱い、あい争う当事者(個人または集団)の一方が他方を訴え公権力の裁定を求める手続である。財産的権利・利益や身分的権利(特権)・利益をめぐる争いは、この出入筋の手続にもとづき、裁判所でもあり行政官庁でもある役所で処理された。出入筋の手続は、民事訴訟手続というよりは民事・刑事両訴訟手続の合体したものと言う方が良い[1]。吟味筋も刑事裁判だけを取り扱っていたとはっきりした区切りはない。また、願型の訴訟の形式をとる民事・刑事の訴状も存在し、訴えられた相手方の名前は、訴状の冒頭に訴訟人と並んで併記されることはなく、訴状の本文中に記されている[3]。

刑事裁判で量刑を決めるに当たっては、「公事方御定書」の条文と過去の裁判例をもとに、その妥当性や法的な整合性について徹底的に議論され、老中から下役人まで裁判に関わる関係者の合議によって結論が導かれていた。これは幕府は著しく公儀の利害に関しない限り介入・統制を加えないという当事者処分主義を原則としていたことに基づいている[3]。

なぜ幕藩権力が訴権を強く保護しなかったのか

幕藩制当時の各種団体はより公的なものからより私的なものまで、本質的には自律的集団として同じ性格を持っていた。ではなぜ幕藩権力が訴権を強く保護しなかったのか?それは、幕府がこれら諸団体の関係を維持し、あるいは干渉することで統制するが、それは契約・命令関係ではなく幕府の家父長的配慮による「御世話」、その「御威光」と呼ばれた威信への畏怖、依存の性格が強かったためである[1]と考えられる。江戸の自力救済社会において罪を犯した者の自白は自発的な処分の完了を表明することで「御威光」への服従を示し、その結果、秩序の安定が保たれる。これは江戸幕府が350年と長く続いた要因の一つに諸団体に任せて自律して自ら考えて運用できていたことによるものでもあったと考えられる。

1.     近世幕藩制以前には敵討ちや妻敵討が私的裁判として容認されていたが、統治権力が私的裁判を容認することへのデメリットを踏まえつつ、なぜ容認されたのか、回答者独自の視点から考察しなさい。

統治権力が私的裁判を容認することへのデメリットについて

敵討ちや妻敵討は主君や父や長兄のように尊属を殺害したものに対して私刑として行なった制度である。江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として幕府・藩が処罰することとなっていた。しかし、江戸時代では加害者が逃げて隠れ行方不明となることなど日常茶飯事であり、処罰できない場合には、被害者の関係者の心情を組んだ結果、処罰を武士に委託する形式をとることで敵討が認められた。基本的に被害者が依頼された武士が奉行所に届出て、許可をとって行われる。敵討ちが社会的に黙認されていたのは、むしろ武士たちの「汚名を雪がずにはおれない」という武士自身のプライドのためであった。武士には「切捨御免」と言うように不無礼を行ったものに刀で切り捨てても良い特権があった。

また、武士は自らのための敵討ちを行う場合、脱藩し、給料がない浪人の身となって敵を追いかけるリスクを生じる。基本的には仇討ちを狙っているあいだの生活は、収入がなく、親類などに頼っていくほかない。親類も仇討ちが成し遂げられないと一門に悪い評判が立ってしまうため、何としても成功させようとしていた[4]と考えられる。中には無許可での敵討ちがあり、敵討ちと認められない場合は殺人として罰せられる可能性もある。敵討ちが殺人となってしまうデメリットがある。

妻敵討については姦通が表沙汰になった際の女敵討は武士にとって義務であったが、たとえ達成しても武士の名誉にはならないため、表沙汰にせずに内々で示談にするケースもあった。そのため、制度としても疑問が残っていた。

参考文献

[1]      平松 義郎著『近世刑事訴訟法の研究』創文社、昭和三五年

[2]      平松 義郎著『江戸の罪と罰 (平凡社ライブラリー)』

[3]      大平祐一著 近世日本の訴状 - 訴願手続の考察に向けてhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/00-34/ohira.htm

[4]      山本博文著『江戸時代、なぜ「仇討ち」はお上公認だったのか?』

https://www.gentosha.jp/article/11357

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