「中世の大学教育の成功と失敗」
中世の大学教育はどのようなものであったか。それぞれの学部が独自に成功を収めている。人文学部はパリ大学とオックスフォード大学で、思弁文法学や言語学に繋がる着想があった。哲学はアリストテレス読解がパリ大学のアヴェロニスの注釈があり、その哲学から自治・自律を求める運動も発生した。パリ司教はアヴェロエス主義的な219の命題について神の啓示に反しているとして哲学は神学の補佐とされてしまう。神学の功績の中で有名なのはアルベルトゥス・マグヌスが基礎を打ち立て、トマス・アキナスが確立した総合的哲学体系である。ドミニコ修道会の公式教義と認められたが、大きな批判も呼びおこした。法学についてはボローニャ大学にてローマ法の原理が見直され、ヨハネス・アンドレアらがその体系化を行った。医学については医学的な知が合理的な学問であることを認められ、医療行為の専門職化を促し、外科治療の見直しが行われた。功績ではなく失敗としては教会による管理の結果で歴史学をなおざりにし、文芸・古典作品の研究は取り組まず、精密科学は大学で取り扱われなかった。建築家や技師も大学の外で学ぶ結果となっていた。
「医学教材としての解剖学書」「17世紀の医学教育」「臨床観察の重視」
ヨーロッパの大学医学部では、14世紀頃から医学理論と医学実地が主要な教科となり、16世紀外科学と解剖学が重要となってきた。16世紀に近代解剖学の創始者ヴェサリウスの『ファブリカ』と『エピトメー』が出版された。詳細で精緻な解剖図が高く評価された。ヴェスリングは各章ごとに分かりやすい解剖図を添え、血液循環やリンパ管の発見をいち早く取り入れたことで好評となった。17世紀後半になるとヴェスリングらのパドヴァ大学とは関係を持たないアルプス以北の医師たちが解剖学書を書くようになった。ディーメルブリュックはペスト流行の体験を元に『疫病について』アムステルダムのブランカールトは医学辞書が有名で人気を博した。
医学理論の教材として『アルティセラ』は16世紀末まで繰り返し使用されたが、17世紀に入りフェルネルの『普遍医学』はラテン語で15版出版されている。17世紀には新たな医学理論書が次々と出版され、ドイツ諸大学とネーデルラントのライデン大学で多くの医学理論書が著された。『医学教程』の題で生理学・病理学・徴候学・健康学・治療学の5部からなる。また、医療化学派の先駆け的存在の『化学についてアリストテレスとガレノスの一致と不一致』はそのテーマの2者とバラケルススの学説を調和させようとした。
「数学を学ぶ少女たち」
少女に数学や科学を教えることは必要ない、ふさわしくないと考えられてきた。しかし、そのような考え方の中でも裕福か時間的余裕のある女性は数学教育を受けられた。初期の例として、一世紀末に中国の皇后鄧である。学んだのは斑昭という女性であった。通常の女性が数学を研究する方法としては、父、夫、兄弟から教えてもらうことであった。紀元前19世紀にバビロニアの町シップルではイナナ=アマガ、ニジュ=アンナという姉妹がいた。彼女らは父から学んでいた。先述の中国の斑昭は学者である班固の妹であった。 18世紀になるとソフィー・ジェルマンはパリの裕福な家庭で生まれ、13歳でフランス革命が起こり、外出制限の際、数学の魅力に取りつかれ、ラグランジュやガウスといった数学者へ論文を送るまでとなった。彼女は数学研究の中心の一つのゲッティンゲン大学の名誉博士にも値するとガウスは言っているほどである。
西洋では19世紀少女の地位は改善され始めた。練習帳の記録により、少女らの教えられた数学内容が洞察されている。エレノア・レクサンダーは1831年貨幣換算と三数法について勉強、1834年にはウォーキングゲームのチューターアシスタントを読み勉強、1837年で250ページとかなりの量である。かなり改善は進むが、ケンブリッジ大学は1947年まで女性を正規学生として認めていなかったのは事実である。ソフィー・ジェルマンは18世紀のフランスで生まれ、13歳でフランス革命が起こる激動の時代、当時は「女性に数学や科学を教える必要ない」という価値観が一般的であったにも関わらず自分の好きな数学を学び続け、女性として初めてパリの王立アカデミー受賞を成し遂げた偉大な数学者である。彼女はバスティーユ牢獄が襲撃されフランス革命が起こり、外出制限となった際、ある日父親の蔵書でたまたま手に取った、ジャン・エティエンヌ・モンテュクラの『数学史』であった。モンテュクラの語るアルキメデスの一生が彼女の心を捉えたのである。特に彼女が魅せられたのはアルキメデスの死に関する話だった。言い伝えによると、アルキメデスが砂地に描いた幾何学図形に夢中になっていた。その際、ローマ兵に名を尋ねられても返事をしなかったため、槍で突かれて死んでしまったというのである。殺されてしまうほど夢中になれるなんて、数学はこの世でいちばん魅力的な学問に違いないとソフィー・ジェルマンは考えたという[1]。
数学に魅力を感じたソフィー・ジェルマンは数論と微積分学の基礎を自ら習得し、じきにオイラーやニュートンの仕事について学ぶようになった。しかし、娘が突然こんな女らしくない学問の虜になったとあって、ソフィー・ジェルマンの両親はうろたえた。ジェルマン一家と親しかった伯爵の語ったところによれば、父親はソフィー・ジェルマンに勉強の意欲を失わせようとロウソクと洋服を取り上げ、部屋に暖房も入れさせなかったという。ソフィー・ジェルマンは父親に対抗してロウソクを隠し持ち、毛布にくるまって勉強を続けた。リブリ=カルッチによれば、パリの冬の夜はひどく冷えるのでインク壺のインクが凍りついたが、それでもソフィー・ジェルマンは勉強をやめなかった。頑として譲らず、ついに両親も娘が数学を勉強することを認めたのだった。そして、ソフィー・ジェルマンはクラドニ図形で知られる形周波数によって異なり、決まったパターンを描くことを発見した。ソフィー・ジェルマンによる振動についての研究は、振動に対して強い建物を作るのにも活用された。ソフィー・ジェルマンはこの複雑な模様について研究を行い、様々な振動に対してどのようなパターンが生み出されるのか法則を発見した。この発見が女性で初のパリの王立アカデミー受賞をもたらした[2]。
その後の世界で高層建築ブームを支えた重要な考えは、このソフィー・ジェルマンが行った研究によりもたらされたと言える。パリで高さ324mもあるエッフェル塔が建ち、さらに世界中に高層ビルや長い橋が次々と建造された。現在ではホログラムなどでも応用されている。光をそのまま記録するのではなく、補助の光 (参照波)を重ねて、干渉縞を記録し読み出す。干渉縞には位相情報が書き込まれているため、強度と位相の両方を同時に記録できる[3]。ホログラフィーとは記録したい光波の振幅と位相を補助の波と干渉させ、干渉縞として記録し回折現象を利用して記録した光波を再生する技術である。干渉縞を記録したものをホログラムという。女性に数学や科学を教える必要ないという当時の価値観に屈せず自分の好きな学問を学び続け成功した。ソフィー・ジェルマンのその意思に感服する。
参考文献
[1] 数学の窓 ~1歩踏み込んで~ 女性数学者ソフィー ・ジェルマンの人生 sg70228163417.pdf (pweb.jp) 2021.07.23
[2] エッフェル塔ができたのはこの人のおかげ!?数学者ソフィー・ジェルマンとは
https://note.com/math_wakara/n/nc44dbb3fb9af 2021.07.23
[3] 黒田 光学 第8章 ホログラフィー 8holographyU.pdf (u-tokyo.ac.jp) 2021.07.24
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