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  • E・デュルケムとイスラム教の供犠のあり方

    E・デュルケムとイスラム教の供犠のあり方

    供犠についてのE・デュルケムによる宗教学上の位置付け

     デュルケムの考えでは、「聖俗理論」という聖なる領と俗なる領域を分けるカテゴリーの考えを用い儀礼はその二つの領域を繋ぐ行為として表現した。このカテゴリーは『社会分業論』から始まり、功利主義的個人主義への批判からである。労働が俗的活動の顕著な形態で…反して祭日には、宗教生活が異常な強度で現れる[1]。例えば、動物の供犠は日常生活のこの世と超自然的な存在のいるあの世とを結ぶ行為と解釈している。また、デュルケムによると聖なるものとのかかわりが禁じられる消極的儀礼(タブーなど)と、聖なるものとの交流がなされる積極的儀礼(供犠など)の区別がある[2]。すなわち、供犠は神との交流を図るための式事の1つであると考えられる。

    イスラム教の供犠のあり方

     イスラム教は唯一絶対の神アッラーを信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。特徴として偶像崇拝を徹底的に排除し神への奉仕を重んじる。信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーとはもともとアラビアの多神教の神々の中の一柱であったが、ムハンマドがメッカを占領した際、カーバ神殿に存在した全ての神々の像を破壊し、多神教及び偶像崇拝を戒めアッラーのみを崇拝するようになった。クルアーンは神がムハンマドを通じて、アラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容・意味・葉そのものも全てが神に由来する。クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。イスラム教ではラクダも供物にする。クルアーンはアッラーに「大きなラクダ」を屠って捧げることを命じている。今日でもラクダは食肉として用いられている。イスラム教にとってもっとも神聖だとされているメッカのカーバ神殿でも羊を屠って、供犠として捧げられる。全世界から集まったイスラムの巡礼者のために、大量の羊が売られて屠られている。

    参考文献

    [1] Émile Durkheim, Lesforms élémentaires de la vie religieuse: le systéme totemique enAustralie, FelixAlcan

    1912吉野清人訳『宗教生活の原初 形態上下』岩波書店,1942 下・p126

    [2]コトバンク 儀礼

    https://kotobank.jp/word/%E5%84%80%E7%A4%BC(%E3%81%8E%E3%82%8C%E3%81%84)-1526471

  • ルターの行った功績 宗教改革

    ルターの行った功績 宗教改革

    はじめに

     1517年にキリスト教のカトリック改革運動として始まる宗教改革は、なぜ世界的な出来事とみなされているのか?それは、マルティン・ルターが当時カトリック教会にとっての重要な収入源であった贖宥状を廃止し、聖書の教えに戻るべきだと訴えたことが一番の根底にあると考えられる。初め、マルティン・ルターの宗教改革は単なるドイツの局地的現象に過ぎなく、マルティン・ルター以前にもカトリック教会のあり方に対して大きな疑問をもつ人々がいた。ルターは以前から続くカトリック批判を展開した。ルター自身は、何もカトリック教会と異なる新しい宗派を立ち上げようとしていたのではなく、結果としてプロテスタント派を生むことにはなったが、当時はあくまでも教会内部の改革を進めようと考えていた。

    贖宥符の真の意味

     マルティン・ルターによる批判の矛先は、カトリックによる「贖宥符(しょくゆうふ)」の販売に向けられていた。贖宥符とは、日本では「免罪符」とも呼ばれるもので、金銭と引き換えに教会が発行してくれる。これを手に入れれば、それまでの罪が赦され、死んだ後には天国に行けるとされる証書である。かつては、ローマまで巡礼できないものに巡礼したと同様の効果を与えるとして発行されていた。しかし、その後聖ピエトロ大聖堂の建築の資金など様々な理由をつけて贖宥符を販売していた。もちろん、聖書にそのような仕組みについて書かれた箇所はなく、カトリックが独自に生み出したシステムである。

     マルティン・ルターは信仰とは教会の教えではなく、聖書の教えに基づくべきだと考えた。そこで、ルターは1517年書簡を送りかつヴィテンベルク大学の聖堂の扉に贖宥の効力を明らかにするための討論〔九五箇条の提題〕を呼びかける掲示を行った。その内容としては『煉獄にある魂が自らの救いについて確信し、また安心しているなどということは証明されていない。そのため、教皇はすべての罰についての完全な赦しを与えることで、それによって単純にすべての罰が赦されると理解するのではなく、それはただ自らが科した罰の赦しだけだと理解しているのである。

     それゆえ、教皇の贖宥によって人間はすべての罰から解放され、救われる、と説明する贖宥の説教者は誤っている。(一部抜粋)』1とルターは述べている。これは免罪符によって教皇が赦しているのは教皇が科した罰だけであり、煉獄に向かう魂が免罪符によって許されるということは証明されていない。すべての罪が許されると謳って免罪符を販売することは疑問を抱くとルターは指摘し、善い行いによってのみ罪は軽減されると説いている。この九五箇条の提題からなる当時のカトリック批判によりルターは教皇から怒りを買い、破門されながらも、後に1524年夏南ドイツから全ドイツに渡った農民戦争を経て、新教であるプロテスタントを確立したのである。もちろん、「信仰によってのみ人は義である」をルターは貫き通した結果がこの形となったものと感じる。

    宗教改革後の変化

     また、宗教改革以前の礼拝堂では「礼拝やミサが執りおこなわれる間、礼拝もミサもすべてラテン語。その時々に何が行われているのか、神父は何を唱えているのか、その意味を理の時々に何が行われているのか、神父は何を唱えているのか、その意味を理解する必要はなかったのである。」2とある。マルティン・ルターの宗教改革の成果の1つに、宗教行事を市民の多くが理解できなかったであろうラテン語をドイツ語にて行ったことにある。宗教改革後には『「悔悛の秘跡」と呼ばれる懺悔聴聞は、民衆のためのキリスト教のひとつの顕著な姿である。民衆は自分の犯した罪を個別に神父に懺悔し、神父から「私はあなたの罪を赦す」と赦免を受けるとともに、断食や徹夜の祈りといった償いの行いを課せられる。そうした個別の儀式、秘跡が懺悔聴聞である。これはラテン語ではなく、ドイツ語のような民衆の言葉によって行われた。』3とあり、ただ訳もわからず宗教行事に参加していた民衆は自分たちの理解できる言葉によって行われ、参加する意味をようやく理解できるようになったと考えられる。また、懺悔聴聞によって侵してしまった罪の償いが出来、理解できる言葉で神父から赦免を受けることが出来るようになり、キリスト教徒である意味が宗教改革以前よりも増していると感じられただろう。

    参考文献

    [1]宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」 (講談社学術文庫) p.146-156

    [2]マルティン・ルター ことばに生きた改革者 徳善義和 岩波書店 2015 第四刷p104-105

    [3]マルティン・ルター ことばに生きた改革者 徳善義和 岩波書店 2015 第四刷p115

  • 宗教はなぜ存在するのか?

    宗教はなぜ存在するのか?

    宗教の起源

     宗教は自然災害など人には理解できない状況が起きたとき、それを説明するため生まれたものとも言える。豪雨、火山の噴火、干ばつによる農作物の不作など何故起こるのか理解できない古代の人間にはこれらが起こっている原因が分からない。これは、きっと神が人々の行いに怒っているのだろうと考える。また、ペストなど流行性の病気で次々に人が倒れる奇妙な現象や飢饉による例年にない作物の不作が起こると、神の怒りではないかと言い出す人が出てくる。理由が説明出来ないため、みんなきっとそうだと信じ込む。そのため、儀式を行い、神への捧げ物をして豊作を願ったり、病気治しを祈ったり願ったりする。これが宗教の元になっている。

     人は何か大いなる力に祈り、自分ではどうにもならない欲望を満たして欲しいと考える。他にも、なぜ地球があるのかとか、人間はどうやって生まれたのか、などの疑問も神が創ったということで、明確な理由がないためなんとなくみんな納得する。現代では科学が発展し、神が行ったことであった事象の多くが解明されてきているにも関わらず宗教は未だに存在する。

    宗教信仰の入り口

     まず、宗教信仰の初めは生まれながらに決められる人も多い。両親が特定の宗教を信じていて、小さい頃から宗教の催しなどにも自然と参加していたような人達はその宗教を生活の一部として捉える。例えば、無宗教だという1人の日本人の人生を振り返ってみた場合、高校入試の合格祈願だと神道の考えを持つ神社で参拝を行い、キリスト教様式の教会で結婚式を挙げ、葬式は仏教で数珠を付け南無阿弥陀仏と念仏を唱える。むしろ、それが普段の生活であるため宗教的な活動と気づかず、その生まれた家や地域で宗教が精神に根付いているという場合がある。そのような生活をしていながら、中には人生を終えるまで宗教を信じていないという人もいるだろう。

    宗教を信仰する人

     宗教を信仰する人はどのような人なのか。なぜ人々は宗教を信仰するのか?その一つの答えにすべての人が直面する人生最大の問題に死がある。死は、どんな人も避けることのできない事象である。ところが、不治の病にかかって余命を宣告されるなど、死に直面すると、普段死を忘れて生きている時と、人生観が変わってしまう。今までの悩みの種であったどうしたらお金が儲かるだろうかとか、人から褒められるか、ばかにされないか、愛情に包まれるかということ一切が光を失いもはやそのようなものは関係なくなる。

     お金や財産、地位、名誉、妻子、才能といったものは、死ぬと意味はない。線香花火のような儚い幸せだったことが知らされる。そんなものを必死でかき集めてきた自分の人生は一体何だったのだろうと疑問が起きて、目前に迫る死があり死んだらどうなるかが大問題となる。しかし、科学や医学で、死ぬことを止めるとこはできず、死の問題に対しては何の力にもならないと言える。これは、誰も死んだ後どうなるかは死んだ人しかわからず証明ができないため不安を覚え、何かにすがる。これが宗教である。

    宗教信仰の目的

     また、人は皆自らの意志で生まれてきたわけではない。夢を持って生きている人も多くいるが、ただ漠然と生きている人も中にはいる。そうすると何故私は生きているのか。生きている意味は何か。なんのために生きなければいけないのかと疑問が湧いてくる。これも明確な答えがないため、人は不安を覚える。例えば、キリスト教ではイエスに弟子として従い、彼から彼の言葉(聖書)と読み、祈りによって彼と交わり、彼の命令に従う時に本当の人生の意味を見出すとある1)。キリスト教はイエスと共に生き、その中で生きる目的を見つけることにある。仏教においては、仏教の教えを聞いて、人間に生まれた目的を解決し、未来永劫の幸せを手に入れることにある。今生に人間に生まれることは大変難しいことであり、戒律を守らなければ来生に生まれたときに幸せはやってこないとされる。

     これらの「幸せ」「人生の目的」「死」の3つの問題は、科学や医学では解決が難しく、宗教に頼ることになる。いずれの宗教でもこの3つの問題についての解釈があり、見えない不安を取り除き人生を幸せに生きたい。なぜ生きているのかと考える人がいる限り、宗教が必要とされる。また、その信仰レベルには①地域社会の無意識的な習慣となっているレベルのものと②神仏について自覚的に問う、教理を勉強したり修行したり教団に入会したり、とにかく意識的に振舞うようなレベルのもの2)がある。事実、人の多くはなんらかの宗教を信仰している。

    参考文献

    1)‘GotQuestion人生の意味は何ですか?’. https://www.gotquestions.org/Japanese/Japanese-meaning-life.html

    2021-05-08

    2) 岡田、小澤ら はじめて学ぶ宗教~自分で考えない人のために~ 2011.p8

  • 世界の宗教の特徴とは?

    世界の宗教の特徴とは?

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     世界の宗教にはキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、仏教、ユダヤ教などがある。世界の人口の約77%がこの世界5大宗教のいずれかを信仰している1)。その他、内訳としてはキリスト教が33%、次にイスラム教で20%、ヒンズー教は13%、仏教が6%、その他合わせて28%となる2)。例として日本では7割の人が無宗教・無信仰を自認していると言われる。生まれてから死ぬまでに成長の節目に合わせて通過儀礼を行う。結婚までは神のいる神社でお宮参り、結婚式は神前・仏前・キリスト教式、お葬式でも神前・仏前・キリスト教式・友人葬となにかしらの宗教と繋がりがある3)と言える。以下に宗教の理解のためキリスト教、イスラム教、仏教についてまとめ、中でも私たち日本人になじみ深い先祖供養についても述べる。

    キリスト教の考え方

     世界で最も信仰する人口が多いキリスト教では、人間を造ったのは神であり、神である私を信じなさいという考えを持つ。イエスを救世主と受け入れ、死後この世が終わるときの審判で神の国へ入れてもらえる。現世では、自分の限られた人生を大切にし、神の使命を探りつつ、自己の能力を生かし、親、親族、友人を愛し、幸福な時間で満たして生きること。死後の世界では、天国で栄光の姿に変えられ、涙も憂いもない、真の愛と幸福に満たされ、この世でいったん別れた人たちと再会し、永遠に生きることとなる4)。これがキリスト教の基本的な考え方である。

    仏教の考え方

     また、仏教は「解脱」して「涅槃」に入ることを目指した教えである。何からの解脱(解放)かといえば、「輪廻」からの解脱である。輪廻説によると、世界は限りない大昔から存在していたとされている。たとえば『法華経』によると、シャカは人間界に初めて現れた仏ではなく、第七番目の仏とされている。仏教の求めたものは輪廻の生存からの脱却であり、シャカは「もはや生まれ変わらない者」になったと信じられている。仏教では、執着心・欲望・煩悩という”紐”を断ち切れば、生死輪廻の世界から解脱して、いわゆる「涅槃」に入れると説く。「涅槃」とは、解脱した状態である5)。これは己の内にある仏を修行により引き出しなさいという考え方である。「涅槃」は二つの解釈があるという。一つは、喜びも悲しみもない絶対的静寂(絶対の無の状態)という解釈。二つ目の解釈として、輪廻の生存の外側へ脱することなのだから、通常の”有無”の次元で「涅槃に入った人は存在するか、しないか」などと問うことはできないとしている。「涅槃」とは、輪廻から脱して、生命に関するすべての事柄が絶やされてしまった状態。しかし、涅槃に「何もない」では味気ないということで、後世になると涅槃には喜びがあるという解釈も生まれている。

    イスラム教の考え方

     イスラム教は、唯一絶対の神アッラーを信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下したとされるクルアーン(コーラン)の教えを信じ、従う一神教である。特徴として偶像崇拝を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじる。信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一柱であったが、ムハンマドがメッカを占領した際、カーバ神殿に存在した全ての神々の像を破壊し、多神教及び偶像崇拝を戒め、アッラーのみを崇拝するようになった。クルアーンは神がムハンマドを通じて、アラブ人にアラビア語で伝えた神の言葉そのものであるとされ、聖典としての内容、意味も、言葉そのものも全てが神に由来する。クルアーンを記した文字や本、クルアーンを人間が読誦したときにあらわれる音は、被造物である人間があらわしているので被造物の一部であるが、その本質である言葉そのものは、本来被造物の世界に存在しない神の言葉である。

    仏教の正しい先祖供養 功徳はなぜ廻向できるのか?

     筆者は良い行いも悪い行いもどちらも自分に返ってくると繰り返し述べている。『功徳は自分の心に生まれる。廻向される功徳が物質とちがって心のエネルギーだから、話が見えにくくなっているだけです。因果法則に例外はありません。すべて、厳密に、自業自得です。6)』私たちの言葉、行動、もの、様々な動きで自らのエネルギーを誰かに与えている。これは、釈迦が例外なしと看破した因果法則であると言う。功徳は良い行いを行うと生まれるエネルギーであり、すぐに結果を出してくれるものではない。そして、このエネルギーは「カルマ」と呼び、自分の心に刻まれる。このカルマは他者の幸せを願う心は自分の心に功徳を生む。また、カルマは誰か与えたい特定の人に与えられるものではない。廻り巡って自分に返ってくる。どこで行った行為が返ってきたのかは誰にもわからない7)。霊が出てくるときの例を用いて、どんなときも廻向する心を持つことが重要だと考えられる。

    参考文献

    1) 中村圭志図解世界5大宗教全史

    2) ブリタニカ国際年鑑 2004

    3はじめて学ぶ宗教 –自分で考えたい人のために 岡田、小澤

    4)聖書創世記 新改訳2017 1章26節

    5)キリスト教読み物サイトhttp://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto04.htm 2021.05

    6) 仏教の正しい先祖供養功徳はなぜ廻向できるの? サンガ出版 2008 p.497

    7)パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養『家族のあり方と仏教』日本仏教学会編(平楽寺書店)2004

  • 仏教の正しい先祖供養功徳はなぜ廻向できるの?藤本晃 (サンガ出版)

    仏教の正しい先祖供養功徳はなぜ廻向できるの?藤本晃 (サンガ出版)

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     筆者、藤本氏は本書の中で例を交えながら、良い行いも悪い行いもどちらも自分に返ってくると繰り返し述べている。『功徳は自分の心に生まれる。廻向される功徳が物質とちがって心のエネルギーだから、話が見えにくくなっているだけです。因果法則に例外はありません。すべて、厳密に、自業自得です。(p.497)1』筆者は私たちは言葉、行動、もの、様々な動きで自らのエネルギーを誰かに与えている。これは、釈迦が例外なしと看破した因果法則であると言う。功徳は良い行いを行うと生まれるエネルギーであり、すぐに結果を出してくれるものではない。そして、このエネルギーは「カルマ」と呼び、自分の心に刻まれる。このカルマは他者の幸せを願う心は自分の心に功徳を生む。また、カルマは誰か与えたい特定の人に与えられるものではない。廻り巡って自分に返ってくる。どこで行った行為が返ってきたのかは誰にもわからない。

     また、筆者は『自分も他人も、善行為や善い心の共有によって、得(徳)がますます増えるのです。…やっている行為自体が善行為なら、堂々と乗っかって、「すばらしい。よくやりました」と誉めて、いっしょに喜べばいいのです。他人の善行為を喜んだわたしの心にも、功徳がしっかり生まれます。1(一部抜粋)』と述べている。善い行いは一人で行うものではなく、出来るだけ多くの人と一緒に行うことで、行為者と同じ功徳を手に入れられると言う。

     『たまには悪意のある餓鬼・霊もいるかもしれませんが、人間のような身体もありませんし、なにも悪さはできませんから、放っておくか、「(霊も含めて)みんなが幸せでありますように」と、わたしたちだけはいつも廻向する心、慈しみの心でいればいいのです。12』霊が出てくるときの例を用いて、どんなときも廻向する心を持つことが重要だと述べている。

    参考文献

    1. 藤本晃 仏教の正しい先祖供養功徳はなぜ廻向できるの?(サンガ出版)2008年10月
    2. 日本仏教学会・編「パーリ四ニカーヤに説かれる先祖・施餓鬼供養」『家族のあり方と仏教』(平楽寺書店)、2004