投稿者: uradaidai

  • 【法律】著作物の定義と利用:日本の著作権法に基づく具体例とは?

    【法律】著作物の定義と利用:日本の著作権法に基づく具体例とは?

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    はじめに

     著作権は人々の生活にて身近に触れているものである。何気ない普段の生活の中でも人が身につけている衣類、食べるために使用する食器類、住んでいる家にあるテーブルやソファー、漫画や雑誌、携帯電話で使用するアプリなど考えてみれば周りはありとあらゆるものが著作物である。本レポートでは、まず著作物の定義やその具体例について挙げ、次にその著作物に編集を加え二次的著作物としたもののその利用の例、そして著作権が発生する時期とまたその効力について、著作権が侵害される場合とその侵害の具体例を挙げ、最後に著者の私見を述べる。

    著作物の定義とその例

     日本国の著作権法にて定義する著作物とは、著作権法第2条にて思想又は感情を創作的に表現したものであり文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。「思想又は感情」とは、高度な学問的あるいは芸術的な内容を問うものではなく、人の考えや気持ちが現れているものであれば足りる、と解されている。また、「創作的に表現」とは芸術作品のような創作性を求めているわけではなく、著作者の個性が創作行為に現れていれば良いとされており、創作性のレベルの高低を問うものではない点にも注意が必要である。

     著作物として当たるものには次のようなものがある。例えば、科学技術の研究報告論文、舞台やテレビドラマなどで使用される台本、脚本や小説、詩歌、俳句、講演などの言語、作詞や作曲物である音楽、絵画、版画、彫刻、漫画、書、舞台装置、美術工芸品などの美術、デザイナーや建築家によって設計された芸術的な建造物、図形。フォトグラファーにより撮影された写真、グラビア。劇場用映画、テレビドラマ、ネット配信動画、ビデオソフト、ゲームソフト、コマーシャルフィルムなどの映画。アプリやブログなどのコンピュータープログラム。出版社により編集され、素材の選択又は文字や図表の配列によって創作された新聞、雑誌、百科事典、書物、他には編集著作物のうちコンピュータで検索できるものであるデータベース、日本舞踊、バレエ、ダンスやパントマイムの振り付けなどの舞踊、またこれまで挙げた著作物の二次的著作物などが挙げられる。思想やアイデアは著作物に当てはまらないが、それを文書など形とした場合は著作権が発生する。

    二次的著作物とその利用

     著作権法第2条第1項第11号ではある著作物(原著作物)を、翻訳、編曲、映画化、表現形式を変更する等して創作された著作物を二次的著作物と呼ぶ。二次的著作物については、これを創作した者が有する権利(著作権)と同一の権利を、原著作物の著作権者も有することになり、これを一般に二次的著作物の利用権と呼んでいる(第28条)。具体的には、日本語で書かれた小説を英語など他言語に翻訳し、それを出版する。出版物である原作を用いてそれを映画で表現する場合は、翻訳者の了解だけでなく、元となる原作者の了解が必要になる。

    著作権発生時期とその効力

     著作権は著作物を創作した時点で自動的に発生し、その取得のために手続を必要としない。この点が、登録することによって権利の発生する特許権や実用新案権などの工業所有権と異なる点である。しかし、著作権を登録する制度は存在する。著作権法上の登録制度は、権利取得のためのものではなく、また、登録は著作権の移転の要件ではなく、登録をしなくても移転の効力は有効に生じる。では、なぜ登録制度があるのかという疑問が湧いてくる。それは、著作権関係の法律事実を公示するとか、あるいは著作権が移転した場合の取引の安全を確保するなどのために存在するものである。そして、登録の結果、法律上一定の効果が生じることになる。なお、プログラムの著作物を除くその他の著作物については、創作しただけでは登録できない。著作物を公表したり、著作権を譲渡したなどという事実があった場合にのみ、登録が可能となる。

    著作権侵害の要件と侵害の事例

     著作物を自由に使用できるものとしては家庭内で仕事以外の目的で使用するために著作物を複製することができ、翻訳、編曲、変形、翻案もできる。なお、デジタル方式の録音録画機器等を用いて著作物を複製する場合には、著作権者等に対して補償金の支払いが必要となってくる。しかし、公衆の使用に供することを目的として設置されている自動複製機器を用いて複製するときや著作権法第2条1項の技術的保護手段の障害回避が可能となった複製。具体的には、CDやDVD等の記録媒体に保存された音楽や映像、プログラム等の著作物の複製行為を一定の範囲に積極的に制限する場合や著作権等を侵害する自動公衆送信を受信して行うデジタル方式の録音又は録画を、著作権等を侵害する自動公衆送信である事実を知りながら行うときは、この例外規定は適用されない。 

     それから、国立国会図書館では複製が認められている。著作権法第31条によると国立国会図書館と政令(施行令第1条の3)で認められた図書館に限り,一定の条件(注4)の下に、ア)利用者に提供するための複製、イ)保存のための複製、ウ)他の図書館のへの提供のための複製を行うことができるとある。利用者に提供するために複製する場合には,翻訳して提供することもできる。国立国会図書館においては,所蔵資料の原本の滅失等を避けるため納本後直ちに電子化(複製)することができるとある[3]。

     また、例外として著作権利用の例外規定として映画の盗撮の防止に関する法律により,映画館等で有料上映中の映画や無料試写会で上映中の映画の影像・音声を録画・録音することは、私的使用目的であっても適用されない。2007年8月30日から施行されたこの法律は盗撮行為に対する量刑も大変重く、10年以下の懲役、もしくは1000万円以下の罰金、又はその両方が科せられる。日本の映画産業における被害は年間200億円に上る[2]。芸術とも取られる映画産業を保護する目的がある。

     平成31年1月17日、大阪地方裁判所は、日本最大級の出版海賊サイトにて出版コンテンツの無断アップロード事案に関し、当該サイトを運営・管理するなどしていた主犯格の男性3名について、いずれも実刑判決を言い渡している。男性らは、複数のアップロード行為者と共謀の上サイトを通じて出版コンテンツを権利者に無断で公開していた事実により起訴されていたが、大阪地裁は、本サイトを通じた被害について、起訴対象となった44著作権者、68点の書籍データに限っても3931万円であり、サイト全体では極めて大規模、悪質で結果も重大との事実を認定し、本判決を通じて当該サイトを通じた著作権侵害行為が極めて悪質であったことが改めて明らかなった事例がある[4]。

    著作権侵害に対する私見

     著作物は著作者が苦労して時間や費用をかけ作製したものであるため、容易に他の人に渡らないように制限され、不利益が被らない仕組みとならなければいけない。そこで発生した考えが著作権である。世の中に存在するありとあらゆるものが著作物であり、著作権発生のタイミングとしては著作物を創作した時点で自動的に発生し、その取得のためには手続を必要としない。著作権関係の法律事実を公示する、あるいは著作権を譲渡する場合の取引の安全を確保するなどのために存在するものである。そして、登録の結果、法律上一定の効果が生じることになる。

     なお、プログラムの著作物を除くその他の著作物については、創作しただけでは登録できないことを理解した。また、著作権は二次的な利用にも制限され、原作者の気持ちを考えると、原作者の了承を得ることが必要であることは当然である。音楽や映画など記録媒体での例から家庭生活の限られた範囲の利用であれば、複製を行っても良い例があることが理解できた。しかし、個人使用が目的であっても映画館での撮影を禁止している例などもあるため注意が必要である。

    参考文献

    [1]文化庁 ウェブサイト http://www.bunka.go.jp/seisaku/chosakuken/seidokaisetsu/toroku_seido/index.html

    [2]映画館に行こう ウェブサイト https://www.eigakan.org/legal/

    [3] 公益社団法人著作権情報センター ウェブサイト 著作権法 http://www.cric.or.jp/db/domestic/a1_index.html

    [4] 一般社団法人コンピュータソフトウェア著作権協会 ウェブサイト http://www2.accsjp.or.jp/criminal/2018/1221.php

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  • 【化学】ウランはどのような特徴を持つのか?

    【化学】ウランはどのような特徴を持つのか?

    ウランの特性
    ウランはアクチノイドに属し、原子番号92。元素記号はU、天然に存在する元素の中で最も重い物質である。原子番号は92であるが、ウランは原子半径も大きいためその比重(密度)は、原子番号77番付近のオスミウムやイリジウムや白金などよりも小さい。その比重は室温で、ウランが1cm3当り19g程度であるのに対し、オスミウムとイリジウムが22.5g程度、白金が21.5g程度である。ウランの単体は、銀白色の金属である。常温常圧での安定構造は斜方晶構造(α型)であるが、668 °Cで正方晶構造(β型)へ、775 °Cで立方晶構造(γ型)へ相転移する。融点1132 ℃、沸点3745 ℃。ウラン単体は、反応性が高く、粉末を空気中に放置すると、空気中の酸素によって発火する。またウラン単体を水に投入すると、ウランは水から酸素を奪って、水素ガスが発生する。ウラン化合物の原子価は+2価から+6価をとり得る。このうち、一般に+6価が最も安定である。これに対し、+2価と+5価は特に不安定であり、特殊な条件でないと存在できない。+4価は硝酸水溶液および酸化物等では安定な価数であり、水溶液にしたときには緑色になる。+3価の水溶液は赤紫色となるが安定せずに、水を還元して水素を発生させながら+4価に変化するため、色も緑色に変化する。+6価は水溶液中でも安定であり、ウラニルイオン (UO22+) となって、水溶液は黄色を呈する。水溶液に限らず、+6価のウランは一般に黄色を呈するため、イエローケーキと呼ばれる。 なお、ウランのハロゲン化物は+3価から+6価までをとり得るが、これらは揮発性であることが知られており、その蒸気圧は、+3価が一番小さく、+4価、+5価、+6価と大きくなる傾向にある[1]

    ウランの使用用途

     ウランは核燃料としても知られ、核兵器に使用できることでも知られている。これはウランに核分裂を起こさせることで、エネルギーを取り出している。核兵器製造にはウラン235同位体比90%以上の高濃縮ウラン、軽水炉運転にはウラン235同位体比3~5%の低濃縮ウランが必要である。現在行われている濃縮ウラン製造では、揮発しやすい六フッ化ウラン(UF6)を製造し、気体拡散法または遠心分離法によって濃縮ウランを得る。ただし、これらの用途に使用できるのは、現在の地球上に一番多く存在するウラン238ではなく、次に存在量が多いウラン235である。このウラン235は、唯一天然に産出する核分裂核種として知られ、原子力の分野では重要視されている。このため、しばしばウラン235を濃縮するという作業が行われている。なお、この作業の結果に生ずる、ほぼウラン238だけになった放射性廃棄物を、劣化ウランと呼ぶ。ウラン238が1回のα崩壊と2回のβ崩壊をすることで、このウラン234になるため、ウラン238が存在する限り、ウラン234も無くならない。ウラン234が崩壊しても新たに補充されるためである。なお、このようにウランの同位体は半減期がまちまちなので、地球上のウランの同位体の存在比は、少しずつ変化している。

    ウランの同位体

     ウランには中性子数が異なる234、235、238と多数の同位体がある。現在の地球に天然に存在しているのは、ウラン全同位体の約99.274%を占めているウラン238、約0.7204%を占めているウラン235、約0.0054%を占めているウラン234の3種の同位体である。このうちウラン238とウラン235は、半減期が長い(寿命が長い)ために現在の地球に存在している(なお、ウラン238の割合が多いのは、ウラン238の半減期が一番長いことが関係している)。これに対してウラン234の半減期は、たったの約24万5500年程度でしかないにもかかわらず、現在の地球に存在している。ウラン234が現在の地球に存在していられる理由は、ウラン238が鉛206に変化する過程(ウラン系列)に、このウラン234が属しているからである。

    ウラン235とその核分裂反応について

     ウラン235は陽子92個と中性子143個から構成され、アルファ線を放出して、トリウム231(231Th、1.06日)となる。ガンマ線が放出され、トリウム231の崩壊でプロトアクチニウム231(231Pa、3.24万年)が生じ、崩壊が続いて最後は鉛-207(207Pb)となる。天然ウランに0.720%含まれ、天然に存在する唯一の核分裂性放射能である[1]
     下記の図1のようにウラン235に中性子を打ち込むと中性子が1つ増えた状態となる。この状態は自身を維持するのには不安定すぎるので、くっ付いた瞬間に2つに分裂する。原子核が割れ、それぞれが他の原子となる。この反応を核分裂と言う。核分裂とは、不安定な状態の原子核(例えば、陽子もしくは中性子が多い不安定核)に、外部からの何かのきっかけを受けて原子核が分裂する現象である。

    画像2.jpg
    画像1.jpg

    図1.ウラン235の核分裂模式図

     核分裂の際にいくつか(平均2.5個)の中性子も一緒に放出する。そして、同時に熱が発生する。その際、原子核にある陽子と中性子を分け合う形で分裂するため、分裂後の個々の原子核にある陽子の数は分裂前と異なり、核分裂をすると全く別の原子となる。代表的な核分裂反応としては下記のようなものがある。なお核分裂反応は確率的に起こるため、他の核種を生成することもあり、下記の反応はあくまで一例にすぎない。


     235 U + n → 95 Y + 139 I + 2 n {\displaystyle {}^{235}{\rm {U}}+{\rm {n}}\rightarrow {}^{95}{\rm {Y}}+{}^{139}{\rm {I}}+2{\rm {n}}} この反応ではイットリウム95 とヨウ素139 が生成されるが、上式で元素記号の左肩に示した質量数は原子核の中に存在する陽子と中性子の和であり、右辺と左辺の核子数は等しいことがわかる。すなわち、核分裂反応では反応の前後において質量数は保存される[3]

    核分裂生成物について

     核分裂の過程で原子核が分裂してできた核種を核分裂生成物という。通常は二等分になることはなく、一方が重く質量数140程度、一方は軽い95程度の核になる。これは、分裂するときに魔法数(まほうすう)に近い安定な原子核になろうとするためである。魔法数とは、原子核が特に安定となる陽子と中性子の個数のことをいう。陽子数または中性子数が魔法数である核種を魔法核と呼ぶ。核構造のシェルモデルでは、殻(シェル)が「閉じている」状態(閉殻)は安定性が高く、崩壊や核分裂が起きにくくなる。計算上特定の値が該当し、魔法数となる。陽子と中性子はよく似ているので同じ値となる。

     現在、広く承認されている魔法数は 2, 8, 20, 28, 50, 82, 126 の7つで、原子番号がこれらにあたる元素は、周辺の元素に比べて多くの安定同位体を持っている。中性子数がこれに該当する同中性子体についても同様で、例えば核種の一覧を見ると、縦の20と横の20には安定同位体が並んでいる。核分裂生成物がどの核種になるかはある確率で決まる。この確率を収率という。核分裂する核種によって異なる収率分布をもっているので、核分裂生成物を分析すれば核反応を起こした親核種が判る。例えば、ウラン235が核分裂を起こした場合その核分裂生成物は80種類程度生じ、質量数は72から160と広範囲に分布している。これらは質量数90と140付近のピークを中心として鞍型の分布をなしている。核分裂生成物は様々な核種の混合物であるが、総じて陽子数と中性子数との均衡を欠いており放射能を持つ。これらの放射性同位体は、陽子と中性子の均衡が保てるところまで放射壊変(主にベータ崩壊)を繰り返す。核分裂生成物の中には中性子を良く吸収してしまう物質が含まれる。このような物質は、原子炉に蓄積して核分裂連鎖反応を阻害してしまうため、毒に例えて中性子毒あるいは単に毒物質と呼ばれる。原子炉を停止したり出力を変えたりした場合、放射性の毒物質の存在量は時間とともに変化するため、原子炉の挙動を不安定にしてしまう要因となる。
     これらの崩壊速度は様々で、数秒から数ヶ月でほぼ崩壊しつくす短寿命の核種、100年単位の中寿命の核種、そして半減期すら20万年を超える長寿命の核種がある。放射性物質は基本的には寿命(ここでは半減期とほぼ同義語と捉えて良い)が短いほど少量でも放射能が強いものの短期間ですぐに減衰するが、逆に長寿命であれば放射能は少量ならば弱い(大量にあれば当然強い)が、時間が経ってもなかなか減らないという性質を持っている。比放射能も参照する。
     短・中寿命核種は盛んに放射線を放って崩壊するため少量でも放射能が大きく、例えば1945年に原子爆弾で攻撃された広島市と長崎市では、被爆者だけでなく家族や知人の行方を捜すため爆心地周辺に後日立ち入った人々が重篤な放射線障害を受けている。一方、長寿命核種は放射能が小さいが、原子炉の使用済み核燃料のように大量に存在すると、人間社会の尺度では半永久的に放射線を放ち続けるやっかいな廃棄物となり、半減期の数倍から数十倍(つまり100万年単位)の期間、厳重に遮蔽して保管し続けなければならない[1]

    参考文献

    [1] ウィキペディア「天然ウラン」 https://ja.wikipedia.org/wiki/

    [2] 原子力資料情報室 http://www.cnic.jp/knowledge/2605

    [3] 山本義隆 『新・物理入門 増補改訂版』 駿台文庫、2004 p.319 ISBN 978-4-7961-1618-3 C7342

  • 【物理】レーザー時間分光技術の光速度撮影とTADF遅延蛍光

    【物理】レーザー時間分光技術の光速度撮影とTADF遅延蛍光

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     LASERはLight Amplification by Stimulated Emission of Radiation光強度増幅誘導放出の略である。レーザーの種類としては固体レーザーにはダイオード、気体レーザーにはCO2・N2、液体レーザーには色素などの種類があり、そのレーザーの種類ごとに波長、エネルギー、出力、パルス幅が異なる。レーザー時間分解分光技術では短い時間でのパルスレーザーを用いた分光計測によって物質の高速な状態変化をとらえる技術である。現象の一部を切り取りコマで見ることが出来る。ノーベル賞受賞も多数あり、化学反応のメカニズム解明であるFlash Photosynthesisがある。応用例としてはナノ材料、太陽電池、人工光合成、LEDなどに応用される。2つの光(光子)を合わせると強度は2倍となる。

     レーザー発生の過程としてはnε>nGとなるときに媒質中で反転分布を用い、刺激される。基底状態から励起状態に反転分布の状態となる。レーザーは光に指向性があり、コヒーレンス性(単一光性)がある。一方、LEDや電球は電荷や光を与えると再結合し、光を放出する。放射状に光が出て制御ができず、コヒーレント性もない。パルス化され短い時間だけ光る。

     ガルバノスキャナはGミラーで光の高速回転を行う。2つのミラーでXY軸をスキャンする。材料の加工や非破壊検査、防犯センサ、レーザー治療、レーシック、メスや脱毛などに応用されている。過渡吸収分光法は超高速スナップショットすることで、材料状態変化やエネルギー変化の動的過程を光の吸収にて調べる。励起光によりパルスレーザー光、プローブ光の光強度の反応追跡を行う。TADF材料は三重光励起状態を熱エネルギーでS1励起状態にスピン変換したときに放出され、遅れた蛍光が発生する。

     蛍光OLEDはS1スピンのみであり高純度で外部量子効率~5%と低い、高価で頑丈である。りん光OLED(S1+T1)は高い外部量子効率(~20%)でレアメタルIr・Pt・Os・Ruなどを必要とし、価格は高価で強度が脆い特徴がある。逆項間交差RISCによる全励起子の傾向活性は分子内展開から純粒子(正孔)の非局在化電子が存在する。非金属、汎用的置換基、高い分子設計自由度があり、⊿EST発光に重要な励起種を考慮されている。メソメリー(共鳴)効果により発現され、RISC速度定数⊿Est=Es-Etとなり、⊿Estが小さくなるほどTADF効率が高い。

     レーザーは様々な分野に応用され、今ではなくてはならないものとなっている。具体的に何でこの二つの内容に興味を持つようになったのか。ここで説明させてもらいます。高速度撮影について私はカメラが好きで写真を撮ることが好きである。TADF遅延蛍光は蛍光とりん光が違って優れたところも多いと考える。

  • 【物理】ラマン散乱と非線形光学効果

    【物理】ラマン散乱と非線形光学効果

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     通常の光散乱では,入射光と散乱光の波長は同じである。ところが,ラマン散乱で観測される光の波長は,入射光とは異なり,波長が長くなったり短くなったりする。これは,光が分子によって散乱される際,その光子のエネルギーの一部が分子の振動エネルギー(回転/電子エネルギーのこともある)に奪われる,または,分子の振動エネルギーが光子のエネルギーに加算されるためである。その意味で,ラマン散乱とは,分子による光の“非弾性散乱”である,とも言えよう。通常の光の散乱にくらべて,ラマン散乱光は一般にひじょうに微弱な光である。

     分子はさまざまな振動モードをもち,それらは異なる振動エネルギーをもつため,ラマン散乱光には多数の波長の異なる成分が含まれる。ラマン散乱光を分光すると,多数の鋭いバンドからなるラマンスペクトルが得られる。このスペクトルは,分子やその構造に特有のパターンを示すため,ラマンスペクトルはしばしば“分子の指紋”とよばれる。

      ラマン散乱https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/story/newsletter/keywords/20/01.html

     非線形光学効果とは、高強度の光を誘電体中に注入した際に発生する非線形応答の総称である。 非線形光学効果を応用することによって、全光型のデバイスを実現することが出来るので、今後ますます 高速化する未来のフォトニックネットワークにおいて非常に重要な役割を果たすことが期待されている。具体的に非線形光学効果においては、光電界が分極に対し非線形な応答を示す。光ファイバは、SiO2で構成されているため反転対称性を示し、 x(2)=0となるため、光ファイバ中で発生する非線形光学効果は3次の非線形光学効果であると言える。 これによって屈折率が光りの強度にも依存するようになり、このことを特に光Kerr効果と言う。 この光Kerr効果の中で特に注目されているのが四光波混合(FWM:Four Wave Mixing)と呼ばれる現象である。 四光波混合とは高非線形光ファイバに周波数が異なる3つの光を入射した際に、もう1つの異なる周波数を持つ光が発生する現象である。 以下、図1に四光波混合の概念図を示す。

      四光波混合 http://www.cntp.t.u-tokyo.ac.jp/abstract/nonlinear?lang=jp

  • 京都の文化『京料理と京野菜と和菓子』

    京都の文化『京料理と京野菜と和菓子』

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    概要

     京都の料理は『京料理』として呼ばれている。京料理は旬で彩りの美しい食材を利用する日本の春夏秋冬の季節が豊富に取り入れられている。季節ごとにふるまわれる京料理について触れる。しかし、タケノコご飯といえども、料理人による「うま味の引き出し方」にひと工夫が感じられる料理である。また、京都では独自の焼き鳥のスタイルがあり、地元の食材や調味料を使用した独特の味わいが楽しめる。また、京都は和菓子の名所であり、特にお茶うけとして楽しまれる茶道との関わりが深く、そこから発展した結果、有名な和菓子店が存在する。それから、京都の豊かな自然環境が育む新鮮な野菜が味わえる。例えば、聖護院大根、青海大根、京水菜、加茂ナス、伏見唐辛子、万願寺唐辛子、えびいも、九条ネギ、京タケノコ、花菜、鹿ヶ谷、カボチャ、堀川ごぼうなど京都独自の野菜が挙げられる。上記のように京料理、和菓子、京野菜について述べる。

    京都の料理『京料理』

     京都は日本の歴史的な都市であり、独自の食文化が根付いている。京都の食べ物には次のような特徴がある。まず、懐石料理の発祥地として知られている。京都の料理は『京料理』として呼ばれ、京料理は旬で彩りの美しい食材を利用する日本の春夏秋冬の季節が豊富に取り入れられている。季節ごとにふるまわれる京料理について触れる。京の都を訪れる観光客に対して振舞われるのが、春の野菜であるタケノコやワラビ、ゼンマイなどの山菜料理である。春の訪れが感じられるタケノコご飯はとてもおいしい料理で、これは今も昔も変わらない。しかし、タケノコご飯といえども、料理する人によって味が変わる。基本的には、タケノコと一緒に油揚げを入れ、出汁を少量入れることでタケノコの香りを引き出すという、料理人による「うま味の引き出し方」にひと工夫が感じられる料理である。旬の食材を贅沢に使い、彩りや盛り付けにもこだわる料理スタイルである。また、京都では独自の焼き鳥スタイルがあり、地元の食材や調味料を使用した独特の味わいが楽しめる。

    京都のお菓子『京都の和菓子』

     京都は和菓子の名所であり、特にお茶うけとして楽しまれる茶道との関わりが深く、有名な和菓子店が多くある。2019年工業統計調査では生和菓子年間366億円もの需要がある。京都の和菓子のルーツには茶道のお茶うけとして進化している。麩や饅頭、点心などがある。有名な菓子に千利休の茶会に出された麩の焼きがある。1589年には練羊羹が発明されている。八ツ橋、ちまき、きんとん、葛菓子、求肥、懐中汁粉、落雁など多くのお菓子がある。八ツ橋は「生八ツ橋(なまやつはし)」が存在し、本来の八ツ橋は区別するために「焼き八ツ橋」と呼ばれている。特に餡入りの生八ツ橋で生地に抹茶やごま、餡に果物やチョコレートを用いるなど創意工夫が凝らされており、焼いた八ツ橋よりも生八ツ橋の方が好まれる傾向にある。焼き八ツ橋は米粉・砂糖・ニッキ(肉桂、シナモン)を混ぜて蒸した生地を、薄く伸ばして焼き上げた堅焼き煎餅の一種であり、形は箏または橋を模しているとされ、長軸方向に凸になった湾曲した長方形をしている。京都では上生菓子として親しまれている。

     上生菓子とは生菓子の中でも上等なものと言われ、和菓子職人が熟練の技術を駆使して作る、四季の移ろいや花鳥風月を表現したお菓子のことである。

     きんとんは上生菓子の製法で、篩(ふるい)のような網目のある道具に餡子を通してそぼろ状にし、芯となる餡子にこのそぼろを添えつけていくことを “きんとん”と呼びます。京都では、秋の季節になるとこれを栗あんで仕上げる栗きんとんが現れる。

    京都独自の野菜『京野菜』

     京都独自の京野菜がある。京都の豊かな自然環境が育む新鮮な野菜が味わえる。昭和63年、京都府農林水産部が「京の伝統野菜」の定義を以下のように定めている[1]

     1. 明治以前から生産されているもの

     2. 対象地域は京都府内全域

     3. たけのこを含む

     4. キノコやシダを除く

     5. 栽培または保存されているもの及び絶滅した品種を含む

     京の伝統野菜は、全部で37品目があり、中には、郡大根(こおりだいこん)や東寺蕪のような、絶滅してしまった品種も含まれている。また、公益社団法人京のふるさと産品協会は「ブランド京野菜」を以下のように定めている。京都らしいイメージがあり、安定した品質・企画で適正な出荷量が確保できる野菜。万願寺とうがらしや、金時にんじん、やまのいもなど全部で20品目が指定されている。京の伝統野菜であり、かつブランド京野菜でもある野菜もある。水菜、賀茂なす、伏見とうがらし、万願寺とうがらし、鹿ヶ谷かぼちゃ、えびいも、聖護院だいこんなど合計13品目の野菜がそれにあたります。例えば、聖護院大根、青味大根、京水菜、加茂ナス、ホンシメジ、伏見唐辛子、万願寺唐辛子、えびいも、九条ネギ、京タケノコ、花菜、鹿ヶ谷、カボチャ、堀川ごぼうなど京都独自の野菜が挙げられる。 

     聖護院大根は170年以上前、左京区聖護院の農家が尾張の長大根から作りだしたことから聖護院大根という名がつけられた。また、千本釈迦堂の大根焚(だいこだき)では、二千本もの聖護院大根が厄除けにふるまわれ、京都の冬の風物詩として今なお続いている。青味大根(あおみだいこん)は聖護院大根とは違い、細長い形が特徴である。地上に出る部分が緑色であることから名付けられました。青味大根葉漬物やご祝儀の野菜として欠かせない京野菜で夏に種まきをし、11月頃の秋に旬をむかえる。加茂ナスは1個250gから300gほどもある大型の丸なすで肉質が緻密で、煮炊きしても型くずれしない。貞享元年(1684)の文献に記載があり、古くは、左京区吉田田中地区で栽培されていた。今から約100年前に北区上賀茂、西賀茂及びその附近特産の大型なす品種として栽培されるようになった。揚げ物に適し、特に丸形をいかした田楽が親しまれている。また、京都では形が丸い特徴があるホンシメジがあり、全国シェアは99.9%である。伏見とうがらしは、江戸時代頃から京都府伏見地区で生産がはじまった品種である。1684年の「雍州府誌」に「山城の国、伏見辺りで作られたものが有名」と記載され、伏見付近を中心に栽培されてきたものと思われる。別名「ひもとう」ともいわれるように、とうがらしの中では最も細長い品種で20cm位になるものもある。京都では家庭菜園で作っている人も多く、焼き物、炒め物、煮物など実はもちろん葉っぱまで「きごしょう」といって佃煮にして食べるという重宝な野菜でした。 一方、万願寺とうがらしは、伏見とうがらしの交雑品種である。万願寺とうがらしは大正末期から昭和初期にかけて京都府舞鶴市万願寺地区にて伏見系のトウガラシとカリフォルニア・ワンダー系のトウガラシを交配して誕生したものと言われている。果肉は大きくて分厚く、柔らかく甘味があり、種が少なく食べやすいことが特徴である。その大きさから「とうがらしの王様」とも呼ばれている。京都市並びに京都府中丹地方では万願寺とうがらしを使用した郷土料理「万願寺とうがらしとじゃこの炊いたん」が家庭料理として親しまれている。「炊いたん」とは、出汁が染み込むまでしっかり炊いたおかずのことを意味している。

     以上のように京料理、和菓子、京野菜について述べた。これらの食べ物は、京都の歴史や文化、地域の気候などが影響している。訪れる際には、伝統的な料理から新しい試みまで、様々な食の楽しみ方ができる。

    参考文献

    [1] 京の伝統野菜・京のブランド産品 https://www.pref.kyoto.jp/brand/brand1.html

  • 【歴史】日米修好通商条約で起こったこと

    【歴史】日米修好通商条約で起こったこと

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    はじめに

     安政3(1856)年7月21日、初代アメリカ総領事ハリスは日本との貿易ができるよう通商条約の締結を幕府に求めた。条約の調印は神奈川沖に泊まっているポーハタン号の上で行った。朝廷の孝明天皇からは条約調印の勅許が得られないまま、安政5(1858)年6月19日、大老井伊直弼は「日米修好通商条約」全14条(付属貿易章程7則)を締結した。

    また、幕府はアメリカに続いて、安政の五か国条約を結んだ。オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結んだ。いずれも、他国が関税率を決められる関税自主権を持つことはできず、他国の法律で裁くことができる治外法権を認める不平等条約で、後に明治政府が欧米諸国とこの不平等条約改正の課題となった。なお、条約の調印場所となったポーハタン号は日米修好通商条約の批准書[注1]を交換するため、安政7(1860)年1月、アメリカに向けて横浜を出発している。勝海舟らが乗る咸臨丸も共にアメリカに向かった。

    日米修好通商条約 条文

    以下引用文(985字)

    日本国亜墨利加合衆国修好通商条約並貿易章程

    第一條 向後日本大君と、亜墨利加合衆国と、世々親睦なるべし。(中略)

    第二條 日本国と欧羅巴中の或る国との間に、もし障り起こる時は日本政府の嘱に応じ、合衆国の大統領、和親の媒となりて扱ふべし。(中略)

    第三條 下田・箱館の外、次にいふ所の場所を左の期限より開くべし。

    神奈川 午三月より凡十五箇月の後より西洋紀元千八百五十九年七月 四日

        長崎         同断               同断

        新潟  午三月より、凡二十箇月の後より  西洋紀元千八百六十年 年一月一日

    兵庫  午三月より、凡五十六箇月の後より 西洋紀元千八百六十三 年一月一日

     若し、新潟港を開き難きことあらば、其代わりとして同所前後に於て一港を別に撰ぶべし。神奈川港を開く後六ケ月にして、下田港は閉鎖すべし。此ケ条の内に載たる各地は亜墨利加人に居留を許すべし。

    第四條 総て国地に輸入輸出の品に、別冊の通、日本役所へ運上を納むべし。(中略)

    阿片の輸入厳禁たり。若し亜墨利加商船、三斤以上を持渡らば、其の過量の品は日本役人これを取上ぐべし。

    第五條 外国の諸貨幣は、日本貨幣同種類の同量を以て通用すべし。金は金、 銀は銀と、量目を以てひかくするをいふ。(中略)

    第六條 日本人に対し法を犯せる亜墨利加人は、亜墨利加コンシュル裁断所にて吟味の上、亜墨利加の法度を以て罰すべし。亜墨利加人へ対し法を 犯したる日本人は、日本役人糺の上、日本法度を以て罰しべし。

    第七條 日本開港場の場所に於て、亜墨利加人遊歩の規定左の如し。

      神奈川、六郷川筋を限とし、其他は各方へ十里(中略)

    第八條 日本にある亜墨利加人、自ら其国の宗法を念じ、礼拝堂を居留場の内 に置くも障りなく、並に其建物を破壊し、亜墨利加人宗法を自ら念ずるを妨る事なし。(中略)

    双方の人民、互に宗旨に付ての争論あるべからず。(中略)

    第十條 日本政府合衆國より軍艦蒸気船商船鯨漁船大砲軍用器並に兵器の類其他要需の諸物買入れ又ハ製作を誂へ或は其國の学者海陸軍法の士諸科の職人並に船夫を雇ふ事意の侭たるへし

    第十三条 今より凡百七十一箇月の後 即ち千八百七十二年七月四日に当る  双方政府の存意を以て、両国の内より一箇年前に通達し、此の条約 並に神奈川条約の内存置く箇条及び此の書に添たる別冊ともに、双 方委任の役人実験の上、談判を尽し、補ひ或ひは改むる事を得べし。

    第十四條 右条約の趣は、来る未年六月五日 即千八百五十九年七月四日より執行ふべし

    第一条では鎖国によりこれまで閉ざしてきた港を開港し、日本とアメリカ合衆国では交流を行わなければいけないことが記されている。

    第二条では日本と他国との間にもしトラブルが起こった時は日本政府に応じ、合衆国の大統領と和解に努めることとしている。

    第三条では神奈川・長崎・新潟・兵庫の港を開く条件と江戸・大坂の開市、通商は自由貿易とすることが書かれている。また、神奈川の開港6か月後には下田港を閉鎖すること。また、開港された土地にアメリカ人のための居留地を設けることができるとある。

    第四条ではアメリカとの貿易品にかかる関税の割合は日本とアメリカがお互いに協定して決めることが定められている。日本の関税を自ら決定出来ず、他国と協議しないといけない。関税自主権の欠如となる不平等な条約である。

    第五条では、外国の貨幣と日本の貨幣を今後1年間交換できることが決められている。また、金貨・銀貨の輸出も認められていた。しかし、貨幣に含まれている金や銀の量が日本と外国とでは異なるため、日本の金貨が大量に海外へ持ち出されることになった。このため、貿易が今後発展できないと心配したハリスらは幕府に金貨の改鋳を求めた。万延元年(1860年)には金貨の改鋳を行い、金貨の流出は止まっている。アメリカ人であるハリスが武力行使を行えば簡単であるはずの日本に対して、これまで鎖国を行ってきた日本との貿易が、うまくいかなくなってしまうことを心配して介入しているのは興味深い事実である。

    第六条では治外法権。日本に滞在するアメリカ人が罪を犯した場合、領事裁判所でアメリカの法律により裁かれることについて書かれている。これは実質的に治外法権を認める内容で、第四条と併せて極めて日本に不平等な条約であった。

    第七条では第三条で決めた開港場所付近のアメリカ人の行動範囲を規定している。例えば、神奈川港では六郷川沿いを境目として、その他の方角は約十里までと決めている。文久2年(1862年)に生麦村で起きた生麦事件は日英修好通商条約で同じようにイギリス人の行動範囲も規定されている。

    第八条は日本に滞在しているアメリカ人のために礼拝堂を居留場の内に置くことが許される。また、その建物を破壊し、アメリカ人を妨害してはいけない。また、日本人とアメリカ人の争いも起こしてはいけないとしている。

    第九条では米国領事が要請した場合、日本政府は司法からの脱走者、逃亡者を逮捕し、領事の逮捕した者を禁固とし、米国法適用の可否権を当地の領事に与え、護送を行うこと。米国領事は、これらの措置、囚人の禁固にかかる正当な費用を支払うものとする[2]

    第十条では日本政府は米国より軍艦、商船、捕鯨船、大砲、軍需品、諸武器、及びその他の必要品を購入でき、作製を委託できるものとする。また、これらの船や武器に関し、米国の科学者、軍人、職人、船員に接触できるものとする。日本政府の購入品は米国から輸出でき、かかる輸出品に携わる米国人は誰でも自由に米国を出国できるものとするが、日本が米国と戦争となった場合は、戦争によって禁じられる物品、及び海軍、軍隊員を輸出出来ないものとする[2]。これにより日米間において船や武器を輸出入出来ることになるが、戦争となった場合は武器が手に入らないこととなるため戦争の抑止力効果を持たせている。

     第十三条では今より1872年7月4日に当る日に双方政府の合意を以て、神奈川条約(日米和親条約)の内に箇条及びこの書物を得るとある。

    第十四条では条約が1859年7月4日より執行するとある。

    初代アメリカ総領事ハリスは日本との貿易ができるよう日米修好通商条約の締結を幕府に求めた。大老井伊直弼は朝廷の孝明天皇からは条約調印の許可が下りないまま押し切り、この条約を締結した。アメリカとの争いを避けるため、関税自主権がなく、治外法権となる不平等条約となったが、結果的に鎖国から貿易を拡大し、これが日本を近代的な国家へと加速することとなった。

    参考文献

    [1]日本国亜墨利加合衆国修好通商条約並貿易章程

    日米修好通商条約 http://chushingura.biz/p_nihonsi/siryo/0801_0850/0836.htm

    [2] 日米修好通商条約(1858年締結)ハリス条約

    https://www.tomoland.net/nagamimi/nagamimi/treaties-harris.html
  • 【歴史】刀狩り論 藤木 『刀狩り』(岩波新書、2005年)

    【歴史】刀狩り論 藤木 『刀狩り』(岩波新書、2005年)

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    刀狩令

    秀吉の刀狩令は1588年(天正 16年7月づけで発令された3ヵ条からなる朱印状である。3ヵ条のうち、法の定めが主文(百姓武具の停止の原則)といえるのは、第1条の最初の部分だけであり、残りの部分はこの法の読み手である大名・領主・代官らの説得に当てられる。第2条と第3条は大名・領主・代官らが百姓を説得するための秘策を伝授した箇条である。「武器を農具へ、戦士から農民へ」といった形で、秀吉は刀狩令(の第2条と第3条)を通じて、あるべき理想の百姓像を示す。それは、中世的な自力による紛争処理のシステムがもたらす惨禍に疲れ果てた民衆の気持ちに巧みに取り入る説得の論理でもあった。

    刀狩の目的

    藤木は刀狩りに関する通説として刀狩令によって民衆は武装解除され、抵抗の物理的手段をとりあげられてしまったという理解があり、丸腰の民衆像がある。数多くの研究が積み重ねられている太閤検地と異なり、刀狩り令に関してはまったく研究されることもなく、上記の理解が通説とされている。日本人の共同幻想ともいうべき、丸腰の民衆像という刀狩りの通念は、百姓の武装解除を謳った一片の法令を政策の貫徹と読み替え、歴史の実像に目をつぶることで成り立つ。一方、しかし,秀吉の「刀狩り」は民衆の「武装解除」ではなかったという評価は妥当なものと言い得るのか。確かに,秀吉の「刀狩り」が「根こそぎ」ではなかったことは納得できる。また身分標識としての「刀」に対する統制が目的であったという点もそれが唯一ではないが首肯できる。しかし,そのことをもって民衆の「武装解除」ではなかったと言えるのであろうか。「刀狩り」によって,百姓にとって武器は本来必要のないものとして,その没収が命じられた。そして,それが「根こそぎ」ではなかったとしても実際に没収が実行されたのである。百姓は農耕に専念すべきものとされ,武器を持たざるものと位置づけられた意味は大きい。武器を持つことが明確に非合法化されたのである。その意味では民衆の「武装解除」と言うことができる。領主や大名に不満があれば根来衆や雑賀衆と言った武装集団も武装解除している。大橋はこの刀狩により17世紀半ばまでに武士(領主)の責務は「仁政」を行うことであるとの観念が成立したとしている。

    兵農分離と刀狩

    刀狩りの真のねらいは帯刀という男の名誉ある武装権を武士だけで独り占めすることに、真のねらいはあった。「平和を守る」のは武装する武士のつとめ、「物を作る」のは農具を持つ百姓のつとめと、兵と農の役割をはっきりと分ける兵農分離を目指したものであり、帯刀はその分離の目印、身分の象徴となった。

    刀狩令は村の武器すべてを廃絶する法令ではなかったからこそ、喧嘩停止令は村に武器があるのを自明の前提として、それを紛争処理の手段として使わないことを命じた法令となる。「自力救済」否定を目的とした刀狩により、横の連帯(一揆)が否定される。

    民衆は武器の使用を封印し、帯刀の名誉を手放してまでも農耕に専念できる平和な世の中が到来することを選択し、刀狩令と兵農分離令の両法令を受け入れる。秀吉の刀狩令の後、近世の村々にはなお数多くの武器が残される。それを使えば罪になったが、所持そのものは問題にもされなかった。しかし、身分表象に関わる刀の規制だけはしだいに浸透していく。民衆の風俗規制としての意味合い。

    民衆の武装解除としての刀狩

    藤木が本書での立論(民衆の武器封印論)の根拠としている「事実」はもう一つある。近世(江戸時代)の百姓一揆について,次のように述べている。中世の村の武力は中世の村々の男たちは刀とともに成人し、自前の武力をもって武装する。その武器を日常生活の中で害鳥獣の駆除や村の治安維持、山野、河海のナワバリ争いに地域の防衛に自在に使いこなし、それを「自検断」と呼んで、「人を殺す権利」さえも手に入れることになる。

    兵農分離・小農自立の進展:生業による役割分担の意識化へは生業と役の結合として士農工商のほか、将軍・大名、天皇・公家、宗教者、下層民、賤民など、当該期のあらゆる階層を含んでいる。それぞれの生業が「役」として果たされることによって秩序が成り立っているという意識がある。横並び意識の醸成:その延長線上に石門心学(18C 初、商行為の矜恃)の登場がある。

  • 【歴史】アンシャン・レジーム

    【歴史】アンシャン・レジーム

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    内容要約

     アンシャン・レジームはフランス革命によって創出された。アンシャン・レジームという言葉は、1788年、貴族身分の1パンフレット作者によって用いられたのが初出とされる。1789年の春の選挙は、フランス国内の3つの身分の代表者が議題を議論する場として、全国三部会を中心とした新体制が樹立された。新たな夜明けが始まり、これ以前の体制を「以前の体制」として言及するものが現れたのである。1790年初頭には、アンシャン・レジームと表現が、革命以前に存在していたものを示す標準的な言葉となっていた。

     では、アンシャン・レジームが示す体制とはどのようなものか。アンシャン・レジームの統治の基本的特徴は代議制なしに国王が恣意的な権力をもって支配している点にある。絶対王政の下では、すべての主権・権威・権力は国王その人に集中させられており、国王は神以外の誰にも、それらの行使について責任を負う必要はなかった。その統治の下では誰もいかなる権力を持つことは許されず、人身も所有も安全を保障されない。合意による規則や法によって公的な事柄の運営が拘束されることもなかった。

    この旧来の統治が崩壊するにあたって、1788年夏に頂点に達した政治的抗争と論争の渦中で人々は、これらすべて恒久的な基盤に立って律するためには憲法が必要だと、語り始めていたのであった。結果として国民議会が1791年9月に生み出した憲法は、アンシャン・レジーム下にあったすべての事柄に対する逆を体現すべく意図されたものとなる。それは、国民主権、法の支配、権力分立、選挙による代議制政府、広範に保障された個人の諸権利を、高々と掲げるものとなった。

     憲法前文の宣言では、自由および権利の平等を害していた諸制度を最終的に廃止する。貴族身分、世襲的差別、封建体制、家産的な裁判、それらから由来するいかなる爵位称号も特権、そしていかなる騎士身分、あるいは、貴族の証明の必要、生まれの差別を含むようないかなる社団や勲位などもはや存在しない。フランス人に共通な法に対する特権も例外も存在しない。法は、自然権や憲法に反するような宗教的誓約も他のいかなる契約も承認することはないとされる。

    これまでのアンシャン・レジームの下では聖職者や貴族という特権身分が存在し、多くの共同負担は免除されていたうえに、すべての公的な権力と利益とが独占されていた。その中でアンシャン・レジームを断罪するために動いた革命家もはじめ、これに歴史的な客観性はまったく考慮されていない。そのため、基盤となるものがなにもないのである。そのため、アンシャン・レジームに対する最初にして最大の擁護者としてエドマンド・バークがいる。彼の『フランス革命に関する省察』は、主にイギリスの自由とフランス革命によって宣言された自由の2つの自由は全く異なるという考えであった。イギリス人は過去から継承されてきた制度を信頼しているが、フランス人は継承してきたものを改革によってすべて捨ててしまっている。アンシャン・レジームに手を加えて改善していけばよかったのではなかったのか。政体に関する最善に近い要素が様々存在していた。特権階級があまりにも誇張されすぎており、実際彼らの行動には品位に満ちており、救い難い悪徳にも汚されていなかった。彼は特に教会に対する攻撃に憤りを感じていた。バークは、教会は調和がとれた社会基盤の1つであり、革命は市民社会の基盤、1つの国家、宗教的権威を革命は破壊したのだという主張をする。アンシャン・レジームの時代は秩序と従順、所有の尊重、そして宗教への敬意の時代であった。

     アンシャン・レジームについて知識を深めるために本格的な学問的研究は1856年に開始された。アレクシス・ド・トクヴィルの『アンシャン・レジームとフランス革命』が創刊された年である。彼にとって革命とは、フランス社会に長いこと以前から伏在していたものが、ただ大きくなり完結させたものであると考えている。近代社会の流れは不可避的に平等へと向かう。危険なのはそれによって専制政治への道や自由の破壊への道が開かれてしまう点である。かつて中世では自由であったが、アンシャン・レジーム下では一部の特権階級への特権や免除が発生。それを水平にする革命が歴史そのものの推進力に他ならないという。また、トクヴィルは述べる。アンシャン・レジームがヨーロッパの大半が同一の諸制度を持ち、フランス特有というわけではない。ではなぜ、フランスで最初に起こったのか。彼によれば、特にフランスでは中央集権的統治によって、公的な発言権も義務という感覚も人々から奪われていた。盲目のその中で非現実な啓蒙思想の夢に魅了され既存の諸制度への軽蔑へと駆り立てられた結果であると述べている。

    書評

     フランス革命の1789年、3つの身分の代表者が議題を議論する場として、全国三部会を中心とした新体制が樹立された。これ以前の体制を「以前の体制」として言及するものが現れたのである。この体制をアンシャン・レジームと表している。

    しかし、革命が起こった要因の1つとしては自由および権利の平等を害していた諸制度があった。また、社会全体の一部の者に特権階級、貴族身分が与えられ、世襲的差別、封建体制による支配を不満に思う市民の声があった。

    革命が行われた結果、人々は、これまで国王自身が法律だというような考えを崩すため、これらすべて恒久的な基盤に立って律するためには憲法が必要だと考えた。国民議会が1791年9月に生み出した憲法は、国民主権、法の支配、権力分立、選挙による代議制政府、広範に保障された個人の諸権利を主張している。この近代に生まれた民主主義の考えが現代でも日本・アメリカ。イギリスなど複数の国のしくみの元となっている。

    もちろん、すべての人が革命を行って良かったと考えてはいない。バークが述べるように市民社会の基盤、1つの国家、宗教的権威を革命は破壊し、秩序と従順、所有の尊重、そして宗教への敬意が壊されたという主張がされている。

    革命はフランス社会に長いこと以前から伏在していたものが、ただ大きくなり完結させたものであると考える。かつて中世では自由であったが、アンシャン・レジーム下では一部の聖職者や貴族への特権や免除が発生、専制政治への道や自由の破壊への道が開かれ、いつしか市民は不平等だと感じ、近代社会の流れは不可避的に平等へと向かう。不満に思う革命家が発生し、これが革命への原動力となる。フランスだけではなく、特にフランスでは中央集権的統治によって、公的な発言権も義務という感覚も人々から奪われていた。盲目となった市民は既存の諸制度への軽蔑へと駆り立てられた結果である。革命の結果としての1つの声としてイギリス人は過去から継承されてきた制度を信頼しているが、フランス人は継承してきたものを改革によってすべて捨ててしまっている。アンシャン・レジームに手を加えて改善していけばよかったのではなかったのか。フランス革命の結果が正解であるかは誰もわからないが、制度は歴史により現代の市民の多くが幸せだと思う方向へ向かいそれが原動力となっていると感じた。

    参考文献

    1)ウィリアム・ドイル著/福井憲彦訳「アンシャン・レジーム」(岩波書店、2004年)

  • 【社会】ジェンダー革命

    【社会】ジェンダー革命

    ドキュメンタリー『ジェンダー革命』は性別と向き合う入門としての映像作品であると言える。本作はナショナルジオグラフィック制作の2017年のドキュメンタリーである。そのタイトルどおり「ジェンダー」をテーマとし、つまり、「性別」についてを題材にした専門的ドキュメンタリーである。作製はナショナルジオグラフィック、科学的な分析も映し出されるサイエンティフィックなスタイルとなっている。子どもがある日突然トランスジェンダーであることをカミングアウトした両親のエピソードや、インターセックスの赤ん坊を前にした両親のエピソードもあり、その動揺とそれとどう向き合ってきたかが赤裸々に語られている。男の子か女の子かと以前はその区別は単純だった。男の子は青を着て車で遊び、女の子はピンク色の服を着て人形で遊ぶ。男の子は外で運動、女の子は家にいる。でも今は違い、性別の概念は揺れている。それをある人は「ポリティカル・コレクトネスを意識しすぎている」と冷笑的に吐き捨てる。しかし、そんな発言をする人も含めて、「性別」というものを本当に理解しているのか。実は性別は思っている以上に複雑であると言える。

    この作品ではまず10年以上ジェンダーを研究をしている活動家のサム・キラーマンが説明してくれる。「ジェンダーブレッド”パーソン”」という概念を語りだし、「性同一性(gender identity)」「性表現(gender expression)」「生物学的な性(biological sex)」の3つの視点があることを解説している。この3つで成り立つジェンダーは、セクシュアリティ(性的指向;異性愛・同性愛・両性愛・無性愛など)とは無関係である。性別は生殖器での判断であると言う世間でまかりとおる認識を改めるところが最初のステップである。ジェンダーの決め手は外性器ではない。その議論で忘れてはならないのが「インターセックス」の存在だと本作では冒頭に述べられている。作中では、インターセックス当事者であるブライアン・ダグラスが実体験を語っている。一般的に母親のお腹の中に宿った胎児は最初は女性器を持っており、それがホルモンの影響で男性器に変化するかしないかという分かれ道となる。ブライアンは出生時は男の子で、ペニスや睾丸のようなものが発達したが、同時に子宮や卵巣も備わっていた。これは子宮の中でテストステロンを過剰に浴びた結果であり、「CAH(先天性副腎過形成症)」と診断される。

    それから、フォードの家族の事例が映し出される。この家のエリーは男の子として出生時は記録されていたが、いつまでも女の子のドレスばかりを着たがり、ついに4歳の誕生日パーティーのときに告げてくるのである。自分は「girl」だと。今はまだいいけど、思春期になったらと親は不安でいっぱいである。他にもさまざまな親の姿が映される。出生時に外性器の手術をしたこと、しなかったことを子に責められたらどうしようと悩む親。親は同性愛者なのかと疑い、パニックになり、一時的なものではないかと本格的なホルモン療法を施す。しかし、性同一性に悩む10代は精神的な苦痛を抱えていることも多く、自殺率も高い。作中でも、自分の子から自殺念慮を持っていたことを吐露され、そこで初めて事態の深刻さに気付いた親の姿が印象的である。「性別は適合するものではなく肯定するもの」という言葉のとおり、外性器や手術にこだわらない若い人も現れている。きっとこれからもジェンダー革命は続くのである。その先にどんな性別の在り方があるのかは私にもわからない。私もどんどん古い人間になっているが、なるべく若い人の新しい価値観に耳を傾ける必要がある。

  • 【科学】労働置換型技術と労働補完型技術

    【科学】労働置換型技術と労働補完型技術

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    労働置換型技術とは労働自体をテクノロジーが自動化することで不要としてしまうタイプであり、産業革命期の労働力が機械にとって代わられることを恐れ、労働者による機械打ちこわしが起こったラッダイト運動の対象となったのもこちらである。

    労働補完型技術は労働者の存在を必要とするが.、その労働をより簡易にできるようにし、機械が労働の一部を肩代わりするタイプを言う。この技術は労働者自身の安全性向上というメリットももたらす。テクノロジーが労働に与える影響を考えるためには、そのテクノロジーがどちらに該当するものなのかを見極める必要がある。

    歴史を見ると技術革新においては労働補完型技術が初めに発生し、発展すると労働置換型技術に置き換わる流れがある。自動車で言えば、初めは徒歩であり、それから化石燃料を使った動力を得る。更にはその自動車を労働置換型のテクノロジーの場合、歴史を紐解けばそこには必ずそれまでの労働が置き換わり、不要とされて職を喪失した労働者の存在がある。もっとも様々なテクノロジーによって失業した労働者のデータを追って見れば、年齢が若いなど再学習のチャンスがある労働者は再雇用に成功するものの、そうでない人間にとっては失業が長く続くというのが一般的な傾向である。

    参考文献
    [1]テクノロジーの世界経済史 ビル・ゲイツのパラドックス みんなのレビュー

    カール・B.フレイ (著), 村井 章子 (訳), 大野 一 (訳)

    また、第一次産業革命・第二次産業革命・現代の産業革命についてそれぞれ説明し、それぞれにおいてどのような労働置換型技術と労働補完型技術が現れ、それらが労働と生活水準にどのように影響したかについて論述しなさい。講義で取り上げた諸国・諸地域について述べること。記述に当たっては、第一次・第二次・現代の順に述べ、労働置換型技術と労働補完型技術は、それぞれ置換型・補完型と略してよい。(2500字以内)

    第一次産業革命

    18世紀の第一次産業革命では主に綿織物の生産技術における技術革新、製鉄業の成長、蒸気機関の開発による動力源の刷新が挙げられる。そうして登場したのが織機と紡績機である。その当時の織布は、織工が一方の手で横糸を縦糸の間を通すための織機の付属物である杼を縦糸の間に投げ込んで、もう一方の手で受けていたので、織布の幅は織工の両手の幅で決定され、広幅の織布を織るには1台に2・3人がつかねばならなかった。そこで、アークライト(1732~92)は1768年にへ複数のスプールがあるジェニー紡績機を改良して、水力紡績機を発明した。この機械は水力を動力としたが、後には蒸気機関を動力とし(1790)、強い糸が連続生産が出来るようになった。

    18世紀半ばにはワットによる蒸気機関の改良があり、石炭を動力とする力織機により綿織物を自動製造出来るようになるとともに、鉄道や蒸気船が生み出された。ワットはグラスゴー大学からニューコメンの蒸気機関の修理を依頼されて大改良を決意し、1765年にシリンダーと冷却器を分離することで出力を従来の2倍以上に、石炭消費量を7分の1に減らすことに成功した。さらに改良を加えて、1781年にはピストンの往復運動を回転運動に替えることに成功し、これによって従来炭坑の排水用にしか使えなかった蒸気機関があらゆる機械の動力として利用することが出来るようになった。木綿工業から始まった産業革命は、蒸気機関の利用による動力革命を引き起こし、さらに機械工業・製鉄業・石炭業など他の工業部門を飛躍的に発展させた。その結果、工場制機械工業が成立・発展し、良質・安価な商品が大量に生産されるようになり、人々の生活を大きく変えていくこととなった。第一次産業革命ではこれらのように主に補完型技術の変化が起こったと言える。

    第二次産業革命

    第二次産業革命はおおむね1860年代後半から1870年代初頭から第一次世界大戦前(1914年)までの期間を指す。第二次産業革命で機械化されるのは製鉄業や造船業のような重工業であり、エネルギーの主役は電力・石油である。1876年のベルによる電話の発明など、電気による通信技術が生まれた。1877年にニコラウス・オットーが石油をエネルギー源とする内燃機関を発明した。オットーはまず、液体燃料つまりガソリンを使用した4サイクルエンジンを発明することに成功した。このことから、1867年論文発表もされた4サイクルの概念は「オットーサイクル」と呼ばれている。

    1879年にエジソンが白熱電球を実用化、電気を普及させるべく、1882年に世界初の発電所をニューヨークのパールストリートで操業開始した。エジソンの白熱電球・電力システムは1880年代にかけて世界に普及した。さらにニコラ・テスラとの電流戦争が巻き起こり、電力の供給が産業を活性化させる。電流戦争では直流送電と交流送電で交流送電に軍配が上がりました。その理由としては、直流送電は交流送電に比べて変圧設備が高価であり、かつ短距離送電では直流送電は変圧設備でのロスが大きくなるという欠点を持っており、交流に軍配が挙がっている。ダイムラーがその技術を受け継ぎ特許を取得。蒸気機関よりも熱効率が高く小型化しやすい内燃機関は工業機械のイノベーションを推し進め、自動車や航空機の発明を可能にした。

     産業と働く人々の関係は19世紀中半まではそれまで人間が手作業で行われていた綿織物と蒸気機関が代わりに行うようになった。そして、19世紀末以降の「産業革命」では自動化のスピードが加速し、第二次産業革命では人間の仕事が機械により一部自動化されるようになった。ここでは、労働が補完型に加えて置換型への変化が訪れている。

    現代 第三次産業革命、第四次産業革命

    現代の第三次産業革命とも言える産業用ロボットは運搬・溶接・検査といった人間の作業まるまる代替が可能になっている。これから第四次産業革命にてIoTやAI人工知能と言った人間のプログラミング通りに動作するだけでなく、自ら学習して株価の変動予測や車の運転といった高度な作業まで代行できるようになった。この産業の発展は人間の仕事を軽くする歴史であると言える。自動化運転によりバスやタクシーの運転手、無人レジによるコンビニやスーパーのレジ係、AIによる自動通訳などの単純作業から代替が行われると考える。第4次産業革命と同意義の言葉として「インダストリー4.0」もよく上がる。インダストリー4.0とはドイツが世界で初めてIoTの普及を国家プロジェクトとして宣言したもので、ドイツ連邦教育科学省が勧奨し、ドイツ工学アカデミーにより2011年に発表された。これを受けて先進国を中心に第四次産業革命への注目が高まった。

    日本で使われている第四次産業革命とは少し異なる意味合いもあるが、製造業のデジタル化・コンピューター化による自動化を推進している点では同じことを指している。たとえば、「ビッグデータ」。これまでの人類には扱いきれなかったような膨大なデータを分析することによって新たな知見が生まれようとしている。

    また、「ブロックチェーン」「メタバース(仮想現実)」「NFT」という言葉もよく聞くようになった。これまでは現実世界を基準とした世界観だが、やがてインターネットを基準とした価値観も生まれてくると考えられる。そのほか、運転者に向けてアシストを行ったり、自動運転技術を搭載したスマートカーや3Dプリンター、バイオテクノロジーなども第4次産業革命に関連する言葉である。自然の流れでコストがかけられるところから置き代わりが進み、最後に残る人間のサービスはロボットにはできないデイサービスのような人と人とのふれあいとなるのではないか。

  • 【生物】DNA デオキシリボ核酸 配列情報

    【生物】DNA デオキシリボ核酸 配列情報

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    DNA配列情報からタンパク質が作られる仕組み

    遺伝子のDNA はタンパク質をつくる設計図と考えられ、そこにはアミノ酸の種類、数、配列、立体構造などタンパク質合成に必要な情報が詰まっている。二重らせんは糖とリン酸が交互につながった帯の上に、アデニン(A)、チミン(T)、シトシン(C)、グアニン(G)という4種類の塩基が突き出ている。染色体上のDNAは合成するタンパク質の情報部分だけ二重らせんをほどき、ほどけた部分の情報は、DNAの鎖の片側からRNA(リポ核酸)に写し取られる。RNAはDNA同様4つの塩基があるが、TだけがU(ウラシル)に置き換わる。DNAがG-C-AならRNAはG-C-Uとなって写し取られる。情報を写した伝令RNAは細胞の核の外に出て、タンパク質の合成工場であるリボゾームにたどり着く。ここに伝令RNA が付着すると、今度は運搬RNAが伝令RNAの持つ暗号の指示通りにアミノ酸を並べ、タンパク質の鎖をつくり出す。DNAには膨大な遺伝情報が書き込まれており、ヒトのDNAは長さ2mにも及ぶ。

    DNA情報の異常による疾患の例

     ヒトのDNA情報の異常の有名な例としてダウン症候群がある。ダウン症候群は、最小の常染色体である 21 番染色体の過剰により引き起こされる。発症には 21 番染色体全体の過剰が必須ではなく、一部分のみの過剰で引き起こされる。

    パーソナルゲノム情報とそのメリット、デメリット

    パーソナルゲノムが手に入るようになれば、ヒトは自分たちがどのような病気になりやすいか、というリスクを事前に知ることができるため、病気になってからの治療が中心的な現代の医療を、そもそも病気になる前に予防するという予防医療へと大きく転換させられる可能性がある。また、大規模なコホート研究などにより、現在難病・希少疾患とされているような疾患の原因を明らかにし、創薬や治療に結びつけられることも期待される。

    パーソナルゲノムのメリット・デメリット

    このような利点の一方で、パーソナルゲノムという「究極の個人情報」の管理や、遺伝情報による雇用や保険における差別、また、出生前診断や個人の”知らない権利”など、多くの社会的・倫理的課題も存在する。

    参考文献

    1.      DNAはタンパク質をつくる設計図? http://www.jmi.or.jp/qanda/bunrui4/q_066.html

    2.      パーソナルゲノム時代の先進的リテラシー教育http://www.iab.keio.ac.jp/research/highlight/papers/201501260129.html

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  • 【歴史】正徳の治 江戸の歴史

    【歴史】正徳の治 江戸の歴史

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    正徳の治は江戸中期、六代将軍徳川家宣・七代同家継の頃(宝永~正徳期) の質素倹約を主とした幕府政治である。側用人間部詮房・儒学者新井白石らが主導した。中でも注目したいのが物価を抑えようと通貨制度の立て直しを図ったことである。結果として、元禄小判と正徳小判の両方が混在して流通し混乱政策としては失敗として伝えられている。

    この制度が失策となったのは、そのときの民衆の考え方が小判の価値を信用していないことを理解していなかったことが原因であり、元禄小判の流通を止め正徳小判を流通させていれば、物価の上昇が抑えられ改革は成功していたかもしれない。当時、慶長金の金の含有量が約86%、元禄金は約52%、正徳金は慶長金と同水準の84.3%に含有率を上げた。この策を考えた荻原重秀は、流通する貨幣が物々交換の考えに基づいて用いられている社会において、公儀権力の発行した貨幣はお金として通用するという現代の信用貨幣の考え方をすでに持っていた。民衆の動きを理解していればうまくいっていた可能性がある。結局、貨幣改鋳は失敗に終わり、経済が混乱するという結果となった。

    参考文献

    [1]日本史広辞典編集委員会編『日本史広辞典』(山川出版社、1997)抜粋

    [2]笹山晴生ほか編『聞く教科書 山川詳説日本史』 (山川出版社、2013)

    [3]山本博文監修・かのえゆうし作画『角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 10 花咲く町人文化 江戸時代中期』(KADOKAWA、2015)

  • 【経済】トヨタ生産方式ジャスト・イン・タイム

    【経済】トヨタ生産方式ジャスト・イン・タイム

    トヨタ生産方式(ジャスト・イン・タイム方式)

    はじめに

    東アジア(日本、中国、韓国の3カ国)の産業競争力の高さは良く知られている。戦後から安い人件費、労働力、低い物価、豊富な資源を理由に外資が投入、インフラが整備され、長きに渡る経済成長が示されている。従来型の製造業では造船、鉄鋼、自動車など、またIT関連分野では半導体、LCD(液晶表示)パネル、コンピュータ、携帯電話など東アジアが競争優位を誇る産業は数多く存在する。日本ではトヨタ、日産、ホンダなどの自動車・バイクで見られる輸出製品の高付加価値化が進んだことが主な理由であり、高い輸出額割合を持つ。また、韓国では現代(ヒョンデ)、起亜(キア)があり、中国では第2位の広州トヨタ、第一汽車、広州汽車がある。

    図表1は日本の輸出額の上位10品目の変遷を年代ごとに集計したものである。50、60年は綿織物、鋼板、船舶といった重厚長大産業や繊維産業が輸出の主力を占めた。70年に入ると輸出を牽引する新たな製品が登場する。日本では自動車が76年に輸出額トップに躍り出て以降、単品としては最大の輸出産業として今日まで続いている。自動車は、60年代には国内のモータリゼーション化が急速に進展して専ら国内市場をターゲットとしていたが、70年代に入り国内需要が鈍化するにつれて輸出の重要性が高まり、70年代後半には輸出台数が国内販売台数を上回り成長を輸出に依存するようになる1)。また、2020年7月1日、新NAFTA (USMCA : United States–Mexico–Canada Agreement)が発効された。特に域内生産の割合を高める新基準であり金額ベースで62.5%の「原産地比率」を75%に引き上げる必要がある2)。そのような情勢を踏まえ、日本の産業の主軸となっている自動車産業について取り上げる。

    図表1 日本の輸出上位10品目

    東アジアでの自動車生産台数を下記『図表2 自動車生産台数推移』に示した。これによると、2000年には日本国内の自動車生産は1,014万台と東アジアにおいて圧倒的な規模を誇っていた。2013年には日本国内の自動車生産は微減の963万台となっている。中国は2000年から10.69倍の2,212万台と急激に伸びている。タイも大きく数を伸ばしており、日本よりも大きく拡大している国が多い。

    図表2 自動車生産台数推移(単位:台、%)、日本を100として比較

    世界での生産台数の生産国基準では2005年ではアメリカが1,195万台(シェア17.7%)で第1位、日本が2位で1080万台(シェア16.0%)、ドイツが576万台(シェア6.3%)となっており、中国、台湾が続いていた。しかし、先に挙げた東アジアの自動車生産台数でも述べたが、2016年では中国が急激に生産台数を伸ばしている。中国が2,819万台と世界シェア29.4%と世界第1位となっている。アメリカが第2位で1220万台(シェア12.8%)、第3位が日本で920万台(シェア9.6%)となっている。これを見ると中国は大きく台数を伸ばしているが、アメリカ・日本での生産台数が変わっていない。

     メーカー基準では2005年の第1位は日本のメーカーで2,121万台(31.8%)、第2位はアメリカのメーカー1,587万台(23.8%)、第3位はドイツのメーカー1,152万台(17.3%)となっている。2016年となると日本のメーカーは2,803万台(29.7%)、ドイツ・アメリカ・中国の3国のメーカーが約1,500万台(約15%)と横並びとなっている。ここで、日本は2005年から2016年の国内生産が減っているのにもかかわらず日本メーカー基準では世界台1位となっており、生産拠点がコストや関税、輸送の観点から中国など東アジアやアメリカなど海外へシフトしていることが考えられる。また、2016年に中国が生産台数、メーカー基準でも大きく伸ばしているが、中国国内の需要が高まっているためであると考えられる。

    自動車産業のビジネスモデルとしては有名なトヨタのかんばん方式とも呼ばれるジャスト・イン・タイム方式を挙げた。かんばん方式のメリットとしては組み立て工場で必要な部品を必要な時間に、必要な数だけ手に入るようにすることにある。これにより、部品を作りすぎず、徹底した無駄な製品在庫・運搬・保管、手待ち動作を排除することができる。また、ジャスト・イン・タイム方式のデメリットとしては大量生産に向いていないため、コストダウンが図りにくい。必要なものを必要なときに生産するため、中小企業では生産量や規模の生産性を活かしにくく、コストダウンするためには部品は購入数量を増やし効率化を図る傾向にある。購入数量が増えにくいため、価格を下げることが困難である。それから、納期のかかる部品は予備の部品が用意されていないため、不測の事態が発生した場合後ろの工程がストップする可能性が出る懸念も考えられる。

    ③自動車産業についての今後の展望

    ※主要な生産国やメーカーは、どこに移転するか/移転しないか

    ※技術や市場の変化は、産業にどのような変化をもたらすか

    自動車産業において日本のメーカーは今後日本国内の自動車需要が現在500万台程度を上限とし大きく増えない4)ことを考えると、輸送コストがかかり、関税が国家間の協定で大きく変わる自動車という製品の性質から成長が期待できる中国を中心とした東アジアの販売へシフトしていくことが考えられる。中国やタイといった東アジアの国々は市場の成長が見込まれるため、内需を確保するべく生産拠点の移転は必要がないと考えられる。ヨーロッパ、北アメリカの需要も大きい成長は期待できないため、販売台数1位のメーカーフォルクスワーゲンなども引き続き中国の需要に頼らざるを得ない。また、北アメリカの販売目的においてはUSMCAが発行されたため、関税による価格増を考えると販売域内での付加価値比率を高めなければいけないため、生産拠点がさらに北アメリカにシフトしていくことが予想される。

    今後、自動車産業では日本は先日『2050年に温暖化ガス排出量ゼロとする』といった排気ガス規制により電気自動車や燃料電池といった次世代の技術にシフトする可能性が高い。また、自動運転といった技術が進んでいくと予想される。そう考えた場合、新技術に対する特許をどの国のメーカーが多く保有するか、法規制が寛容な国の状況により生産拠点が大きく変わる可能性がある。

    【参考文献】

    1)日本国際問題研究所 日本の産業構造変化と東アジア貿易の発展 日本の輸出上位10品目大木著

    http://www2.jiia.or.jp/pdf/asia_centre/h14_economy/03_oki.pdf

    2)日本貿易振興機構 USMCAの概要と自動車分野の原産地規則 中畑著

    https://www.jetro.go.jp/ext_images/biz/seminar/orb-200701/doc1.pdf

    3)東アジアの自動車産業と日本メーカーの課題 山上著

    https://www.jstage.jst.go.jp/article/sisj/2015/30/2015_1/_pdf

    4)AUTO Motive Jobs【2018年版】世界自動車メーカー販売台数ランキング

    https://automotive.ten-navi.com/article/29623

  • 【教育】対照言語学 〜言語習得の過程〜

    【教育】対照言語学 〜言語習得の過程〜

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    日本人はこれまで日本語を身につけておけば、大多数が問題なく生涯生活をすることができていた。しかし、これからの日本人は他言語でのコミュニケーションを取らなければいけない時代がやってきている。いまや日本の教育は小学校から英語教育が始まっており、バイリンガルが当たり前という時代も来るかもしれない。また、インターネットの普及により世界との距離が近くなり、今や日本だけで収まる物事は限られている。Lennebergによると、人間には言語を学習するのに適した年齢があり、その年齢を超えると言語を習得しようとしても完全には習得できない。その年齢は12~13歳だという。これは臨界期仮説(CPH:Critical period Hypothesis)と言われる。では、思春期以降に外国語は身につけられないのか。いやそれは違う。乳幼児から学童期の子供の言語取得の特徴としては、自分の周囲の人々の言葉をまねして習得していくのに対して、思春期以降ではある程度すでに言語を身につける方法が1つ備わっている。母国語習得の枠、言語を身につけるための脳の構成自体が備わっていれば、何歳になっても言語を身に着けることができるとLennebergは述べている1)。思春期以降においては子供と同じように言語を習得していくことはできない。他人からもうある程度言語に対して理解していて当然であると思われ、また、人に気軽に教わる相手がいないといった社会的や心理的影響が作用している。

    そして、日本学術会議の言語・文学委員会に属する「文化の邂逅と言語分科会」は 2016 年 11 月 14 日に 提言「ことばに対する能動的態度を育てる取組み─初等中等教育における英語教育の発展のために─」を公表した2)。これにより、日本の英語教育に問題がないとは言えない。思春期以降で外国語を身につけるため、外国語に多く触れ、統語処理をいかに早く自動化させるかが重要である。そのためには、他の言語と比較し学習において具体的な事例を挙げ、間違え易い点を意識しておくことが重要であると考えられる。

    授業・教材づくりの提案

    上に述べたように母国語以外の外国語の早期取得には思春期前から学習を行うべきである。加えて、対照言語学の観点から、母国語と英語などの第二言語を融合させた国際コミュニケーションの授業を取り入れるべきだと考える。これまで、日本の教育では、日本語を学ぶ過程で少ない割合で英語の授業が加えられている。この科目では、二つの言語を一つの授業で比べて、その違いを理解する時間を確保することで第二言語取得の近道になる。

    参考文献

    1)    Mcnamara J(1973)’’Nersuries, Streets and Classrooms:SomeComperisons and Deductions,’’MLJ,57,5-6,pp.250-254

    2)    「英語の授業は基本的に 英語で行う」方針についてhttps://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/22/11/22_11_78/_pdf/-char/ja

  • 【法律】無権代理と相続

    【法律】無権代理と相続

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    ①無権代理人が本人の相続人である場合

    ②本人が無権代理人の相続人である場合

    ③子が無権代理人の母を相続し、次に本人の父を相続した場合

    それぞれ本人、無権代理人、母、本人と3つの例の場合の解決法について論ずる。

    相続人は相続開始の時から被相続人の財産に属した一切の権利義務を承継する。但し、被相続人の一身に専属したものは、この限りではない(民法第869条)とある。本人が死亡し、無権代理人が相続する無権代理人相続型において特に問題となるのが、本人を相続した無権代理人は追認拒絶ができるかという点である[1]。代理権を与えられていないにもかかわらず本人の代理人と称して取引を行った者(無権代理人)は、本人であるかのようにして契約内容を「履行」するか、取引の相手方に生じた損害に対して責任を取らなくてはならなくなる可能性がある(改正民法第117条2項)。無権代理人と本人、第三者との関わりで権利が異なるため、以下の3つのケースについて理解することを目的とする。

    無権代理人が本人の相続人である場合①

    本人が追認権を行使することができる。追認権とは後から取り消すことができる法律行為を、取り消さないと決める意思表示のことである。本人は無権代理行為を追認することによって、その効果を自己に帰属させることができる(民法第113条1項)とある。また、無権代理行為は本人の追認または追認拒絶によってその効果の帰属の有無が確定する(民法総則条2項)。すなわち、本人がその無権代理人の行為を追認したときには本人にその効果が帰属し、本人が追認を拒絶したときには本人に効果が帰属しないことが確定する。一方で、無権代理行為の相手方は、本人に追認するかどうかの確答を催告する権利を有する(民法総則第114条)。また、相手方は本人が追認する前に無権代理による契約を取り消すことも可能である(民法総則第115条)。確かに、本人が契約して相続人は納得していないので、追認を拒絶できるのは当然と考えられる。また、単独か複数人で共同相続でも異なる。単独の場合は追認拒絶できるが、共同相続となった場合、相続人全員の同意がないと追認拒絶とならないと考える。この場合は当然には有効とならないと言える。

    本人が無権代理人の相続人である場合②

    本人が無権代理人を相続した場合、被相続人がした無権代理行為は相続した場合、当然有効にならない。本人が無権代理人を相続の場合、本人が被相続人の無権代理行為の追認を拒絶しても何も信義則に反しないため、被相続人の無権代理行為は、本人が相続しても当然には有効にならない(最判昭37年04月20日建物引渡所有権移転登記手続等請求 最二小判昭37・4・20民集 16・4・955)。本人が無権代理人の相続人である場合本人が契約し、相続人は納得していない、知らない状態である場合、このケースでは追認を拒絶できるのは当然と考えられる。

    子が無権代理人の母を相続し、次に本人の父を相続した場合③

    無権代理行為を追認する権利は、相続人全員に不可分に帰属する。一人でも追認を拒絶する共同相続人がいるときには、他の共同相続人すべてが追認を承認しても追認の効力が生じず、無権代理行為は全体として無効となる。判例として他の共同相続人全員が無権代理行為の追認をしている場合に無権代理人が追認を拒絶することは信義則上許されないとしても、他の共同相続人全員の追認がない限り、無権代理行為は、無権代理人の相続分に相当する部分においても、当然に有効となるものではない(最一小判平 5・1・21 民集 47・1・265)とある。単独の場合は追認拒絶できるが、共同相続となった場合、相続人全員の同意がないと追認拒絶とならないと考える。複数人に相続がまたがる場合、関わる人全員が納得しなければ権利は変更されないというのは当然である。

    また、例えば、子が本人の無権代理行為を行い、本人と母が相続、その後、母はその無権代理行為を追認拒絶することができない点に注意が必要である。

    [1] 無権代理と相続に関する一考察

    http://law.meijo-u.ac.jp/staff/contents/66-3/660306_matsuda.pdf

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  • 【歴史】江戸時代の幕藩制

    【歴史】江戸時代の幕藩制

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    幕藩制における裁判手続きについて

    幕藩体制では現代の日本のような内閣、国会、裁判所のような三権分立は存在しなかった。その当時、幕府や大名が行政府であり立法府であるが、司法裁判権についても行使していた。江戸幕府の裁判制度の機構的成立は寛文期に老中に集中していた裁判権を新設された寺社・町・勘定三奉行からなる「評定所」へと移行、各奉行の下に法曹官僚が現れた。元禄十年(1697年)の「自分仕置令」によって領主裁判権が保障され、寛保二年(1742年)、判例法である「公事方御定書」が制定された。公事方御定書は上巻は警察や行刑に関する基本法令81通を、下巻は旧来の判例を抽象化・条文化した刑事法令などを収録、宝暦期に最終的に成立し、それ以降裁判制度が確立した。また、これらは出入筋、吟味筋と呼ばれる裁判手続で処理されていた。出入筋は主に民事裁判を取り扱い、あい争う当事者(個人または集団)の一方が他方を訴え公権力の裁定を求める手続である。財産的権利・利益や身分的権利(特権)・利益をめぐる争いは、この出入筋の手続にもとづき、裁判所でもあり行政官庁でもある役所で処理された。出入筋の手続は、民事訴訟手続というよりは民事・刑事両訴訟手続の合体したものと言う方が良い[1]。吟味筋も刑事裁判だけを取り扱っていたとはっきりした区切りはない。また、願型の訴訟の形式をとる民事・刑事の訴状も存在し、訴えられた相手方の名前は、訴状の冒頭に訴訟人と並んで併記されることはなく、訴状の本文中に記されている[3]。

    刑事裁判で量刑を決めるに当たっては、「公事方御定書」の条文と過去の裁判例をもとに、その妥当性や法的な整合性について徹底的に議論され、老中から下役人まで裁判に関わる関係者の合議によって結論が導かれていた。これは幕府は著しく公儀の利害に関しない限り介入・統制を加えないという当事者処分主義を原則としていたことに基づいている[3]。

    なぜ幕藩権力が訴権を強く保護しなかったのか

    幕藩制当時の各種団体はより公的なものからより私的なものまで、本質的には自律的集団として同じ性格を持っていた。ではなぜ幕藩権力が訴権を強く保護しなかったのか?それは、幕府がこれら諸団体の関係を維持し、あるいは干渉することで統制するが、それは契約・命令関係ではなく幕府の家父長的配慮による「御世話」、その「御威光」と呼ばれた威信への畏怖、依存の性格が強かったためである[1]と考えられる。江戸の自力救済社会において罪を犯した者の自白は自発的な処分の完了を表明することで「御威光」への服従を示し、その結果、秩序の安定が保たれる。これは江戸幕府が350年と長く続いた要因の一つに諸団体に任せて自律して自ら考えて運用できていたことによるものでもあったと考えられる。

    1.     近世幕藩制以前には敵討ちや妻敵討が私的裁判として容認されていたが、統治権力が私的裁判を容認することへのデメリットを踏まえつつ、なぜ容認されたのか、回答者独自の視点から考察しなさい。

    統治権力が私的裁判を容認することへのデメリットについて

    敵討ちや妻敵討は主君や父や長兄のように尊属を殺害したものに対して私刑として行なった制度である。江戸時代において殺人事件の加害者は、原則として幕府・藩が処罰することとなっていた。しかし、江戸時代では加害者が逃げて隠れ行方不明となることなど日常茶飯事であり、処罰できない場合には、被害者の関係者の心情を組んだ結果、処罰を武士に委託する形式をとることで敵討が認められた。基本的に被害者が依頼された武士が奉行所に届出て、許可をとって行われる。敵討ちが社会的に黙認されていたのは、むしろ武士たちの「汚名を雪がずにはおれない」という武士自身のプライドのためであった。武士には「切捨御免」と言うように不無礼を行ったものに刀で切り捨てても良い特権があった。

    また、武士は自らのための敵討ちを行う場合、脱藩し、給料がない浪人の身となって敵を追いかけるリスクを生じる。基本的には仇討ちを狙っているあいだの生活は、収入がなく、親類などに頼っていくほかない。親類も仇討ちが成し遂げられないと一門に悪い評判が立ってしまうため、何としても成功させようとしていた[4]と考えられる。中には無許可での敵討ちがあり、敵討ちと認められない場合は殺人として罰せられる可能性もある。敵討ちが殺人となってしまうデメリットがある。

    妻敵討については姦通が表沙汰になった際の女敵討は武士にとって義務であったが、たとえ達成しても武士の名誉にはならないため、表沙汰にせずに内々で示談にするケースもあった。そのため、制度としても疑問が残っていた。

    参考文献

    [1]      平松 義郎著『近世刑事訴訟法の研究』創文社、昭和三五年

    [2]      平松 義郎著『江戸の罪と罰 (平凡社ライブラリー)』

    [3]      大平祐一著 近世日本の訴状 - 訴願手続の考察に向けてhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/00-34/ohira.htm

    [4]      山本博文著『江戸時代、なぜ「仇討ち」はお上公認だったのか?』

    https://www.gentosha.jp/article/11357

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  • 【歴史】日本近代史

    【歴史】日本近代史

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    幕府がアメリカとの修好通商条約締結を急いだ理由

    これまで鎖国を続けていた幕府はアロー戦争にて清に対してイギリス、フランス連合軍が勝利し、天津条約を結ばれた。幕府はアメリカのハリスから両国使節の来航の知らせを受け考えを改める。条約締結を急いだ理由として戦争を仕掛けられるのではないか不安になったからである。幕閣の多くは一刻も早く友好的なアメリカと通商条約を結ぼうとしていた。しかし、調停は思ったより尊皇攘夷の考えで固まり、後に安政の大獄に発展する。

    幕府が桜田門外の変について彦根・水戸両藩の責任を追及しなかったのはなぜか

    本来なら彦根藩は断絶、水戸藩にも相当の厳罰が下されるはずであるが、幕府は処罰を下さなかった。井伊直弼は実際、桜田門外の変にて首を取られ殺害されたが、しかし、しばらく生きていることとし、病気負傷後死亡として受理されている。もし、彦根藩を断絶にしたなら、彦根藩士は水戸藩に仇討ちを試みたであろう。江戸市中で戦乱の可能性が考えられ、幕府はこれを恐れたため穏便な処置で済まされたためである。

    3)文久の改革で参勤交代制度はどのように変わったのか。その結果はどうなったのか。

    1862年に薩摩藩主の父、島津久光にて行われた改革である。それまで2年に1度であった交代制であった大名の参勤交代を3年に1度とし、江戸在留期間も100日としている。また、大名の妻子は人質として江戸に置かれていたが、帰国を許可されることとなった。これは幕府制度確立以来の根本制度の変革であり、幕府権力の低下を意味している。桜田門外の変以降幕府の権力の失墜を阻止する力はなかった。

  • 【雑学】バナナを長持ちさせる方法

    【雑学】バナナを長持ちさせる方法

    バナナを長持ちさせる方法はいくつかあります。

    1. 房から離す

    バナナは房にくっついている部分からエチレンガスが放出され、それが成熟を促進します。バナナを房から切り離して保存すると、熟すスピードが遅くなります。

    2. 他の野菜や果物を避ける

    バナナは他の果物や野菜と一緒に保管しないようにしましょう。他の果物もエチレンガスを放出するため、バナナが早く熟してしまいます。

    3. 冷蔵保存

    バナナが食べごろになったら、皮が黒くなることはありますが、果肉を長持ちさせるために冷蔵庫に入れるのが効果的です。冷蔵庫に入れると熟成が遅くなります。

    4. サランラップを使う

    バナナの茎の部分(房の根元)をサランラップで包むと、エチレンガスの放出が抑えられ、熟成が遅くなります。

    5. 冷凍保存

    バナナを長期間保存したい場合は、皮をむいてからスライスし、冷凍保存袋に入れて冷凍します。これにより、スムージーや焼き菓子に使えるようになります。

    6. 表面の成長剤を取る

    バナナの皮の表面には熟成を促すための成長剤が着いていることが多いです。バナナを水で洗って拭き取ると長持ちします。

    これらの方法を組み合わせて、バナナをより長く新鮮に保つことができます。

  • 【経済】質量保存の法則とSDGs

    【経済】質量保存の法則とSDGs

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    質量保存の法則はある系で物質は形を変えても、なくならずその質量は維持される法則です。持続可能な開発目標(SDGs)と質量保存の法則の関連性は、地球上の資源の管理や環境保護において重要です。

    質量保存の法則の視点

    質量保存の法則は物質がどこかに消えることなく、地球上で形態を変えたり、別の場所に移動したりすることを意味します。これは、私たちが使用する資源や廃棄物が、どこかに消えることはないという現実を示しています。例えば、製品の製造や消費によって生じた廃棄物は、処分されても別の形で環境中に残り続けます。

    SDGsとの関連

    SDGsは、環境、社会、経済のバランスをとりながら持続可能な未来を目指す国際目標です。質量保存の法則を踏まえると、以下のようなSDGsに関連する課題が浮かび上がります。

    1. 目標6: 安全な水とトイレを世界中に

       – 水質汚染の防止は、質量保存の法則を考慮して、汚染物質が水循環の中でどう移動し、影響を及ぼすかを理解することが重要です。

    2. 目標12: つくる責任 つかう責任

       – 資源の効率的な使用やリサイクル、廃棄物の最小化は、質量保存の法則に基づいて、どのように資源が再利用され、無駄が減るかを考慮する必要があります。

    3. 目標13: 気候変動に具体的な対策を

       – 大気中に排出される温室効果ガスは消えることなく、質量保存の法則に従って地球システム内にとどまり、気候変動に影響を与え続けます。これを減少させるためには、排出量の管理が重要です。

    4. 目標14・15: 海の豊かさを守ろう・陸の豊かさも守ろう

       – 海洋や陸上での汚染や資源の枯渇も、質量保存の法則を意識した管理が必要です。例えば、プラスチック廃棄物は海に流れ込み、そこで長期間残留します。

    質量保存の法則は地球規模での資源管理や環境保護の計画を立てる際に、物質の移動や変換を理解し、SDGsの目標達成に向けた具体的な行動を考える上で基盤となる概念です。

  • 【経済】スマート工場EXPO 第3回ネプコンジャパン秋 併設 2024年9月4日-9月6日幕張メッセ

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    CADDI Drawer

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